戦争と人間の罪

「戦争と人間の罪」創世記3章1節~7節

8月のこの時期になりますと、戦争の話がテレビや新聞に大きく報道されます。私たち日本人が過去に犯した過ちを繰り返さないためには大切なことと思われます。戦後72年。日本は一度も戦争に巻き込まれることはありませんでした。それは、憲法9条のおかげです。

その憲法9条が世界情勢の変化で変えられようとしています。特に北朝鮮の状況を見る時、何が起こるかわからない状況です。北朝鮮の報道を見ると、自分たちが正しく、アメリカや周りの国々が悪で、自国を守るために核兵器やミサイルを強化しているように見えます。国が孤立し、周りの情報が正しく報道されなければ、国を守るという名目で戦争を引き起こすことがあります。過去の日本もそうでした。国を守る、国を愛する心は大切ですが、自国を守るという正義を振りかざし、悪を正当化する愚かさを人間は繰り返してきました。人を殺すことは誰しも悪いことだとわかっていても、国を守るため、国民を守るためとなると、多くの命を奪っても、罪の意識を失ってしまいます。何が正しく、何が悪なのか人間の心がマヒしてしまうからです。

罪とは何でしょうか。神が天地を創造した時、罪は存在していませんでした。罪はどうして生まれたのでしょうか。それを知るためには、旧約聖書の創世記の3章を見なければなりません。創世記の2章で、神様は最初の人アダムをエデンの園に置かれました。そして、アダムに対して一つの戒めを与えました。創世記2章16節17節「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない、それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」そして、創世記3章でヘビ(サタン)がアダムの妻エバに近づきました。ヘビ(サタン)の誘惑の本質は5節のことばにあります。「あなたがたがそれを食べる時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」このヘビ(サタン)の誘惑のポイントは二つあります。(1)あなたがたが神のようになる。(2)善悪を知る者となるというものです。

  • あなたがたが神のようになる。

世界の歴史でも日本の歴史でも、支配者、権力者は全て自分が神のようになり、神のようにあがめられることを求めました。神は天地の創造の際、人間に対して、地を治める者、地上の管理者として人を創造されました。しかし、人間はそれで満足しませんでした。管理者ではなく、神から離れ、支配者になることを求めたのです。もともと、神は創造者であり、人間は被造物、神に造られた者です。その人間が神を退け自分の欲望に従って地上を作り上げてきました。それが現代の姿です。ノアの時代、人の悪が増大し、神は人を造ったことを悔やまれたとあります。ノアの洪水の原因は人間の罪の結果でした。また、イエス様は世の終わりはノアの日のようだと預言されました。まさに、私たちはノアの時代と同じ状況の中で生活しているのです。

  • 善悪を知る者となる。

「善悪を知る」とは、何が善で、何が悪かを知るということではありません。自分たちが何が善で何が悪かを決める権限を持つということです。人が罪を犯す前、神のみが善で、神が定めたことが善であり、それに反するものが悪でした。ところが、人間は神を退け、自分に都合の良いことを善とし、都合の悪いことを悪と定めるようになったのです。新約聖書のことば、ギリシャ語では、罪ということばをハマルティヤということばが使われています。ハマルティヤとは、的外れという意味で、神様の定めた戒めから離れた行為を罪と定めたということです。

先週、モーセの死について学びました。モーセは自分の死が近づいたのを知り、イスラエルの民のために遺言を残しました。それが、申命記の後半に記されています。モーセの一番の心配は、イスラエルの民がカナンの地に定着した後、イスラエルの神から離れ、カナン人の神々を礼拝するのではないかという心配でした。そのモーセの心配は的中しました。ヨシュアの生きている時代は、神様の戒めに従いますが、ヨシュアが亡くなると、イスラエルの民は、カナンの神々を礼拝するようになりました。神様はそれを見て、彼らをもう一度、取り戻すために、周りの国々を用いて、イスラエルの民に苦しみを与えました。イスラエルの民はその苦しみから助けを神様に求め、神様は士師(リーダー)を遣わし、イスラエルの民を外国の迫害から助け出しました。また、その士師が生きている時代は、イスラエルの民は神様の戒めを守りますが、その士師が亡くなると、また、カナンの神々を礼拝するという悪を繰り返しました。士師記はそのイスラエルの民の悪の繰り返しが書かれた書です。しかも、その悪はだんだん悪くなっていきました。士師記の最後、21章25節「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」とあります。

それは、法律もない無秩序の生活を行っていたということです。神の基準から離れた人間の最後の姿がこのありさまとなるのです。この状況を立て直したのが、後に生まれる、預言者サムエルです。

交通ルールは、人間を不便にするために作られたものではなく、車を安全に守るために作られたものです。このルールに従っていれば事故に遭うことはありません。しかし、これを無視するなら、自らを危険にさらすことになります。神はアダムに一つだけ戒めを与えました。それは、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」という戒めでした。その戒めは、アダムを守るための戒めで、「神様の戒めを守るなら幸せになれる。」という戒めでした。しかし、アダムもエバも神様の戒めを守るだけでは満足できませんでした。二人は、神様の支配から離れ、自分の思い通りの人生を求めたのです。神様から離れた二人に与えられたものは、肉体の死と苦しみでした。イスラエルの民も同じでした。神様の戒めから離れたとき、彼らに訪れたのは苦しみでした。神様は人を愛して命を与えてくださいました。また、人間の幸せのために戒めを与えてくださいました。しかし、その戒めを無視するなら、私たちは、神様の御守りを失い、苦しみを自分一人で背負わなければなりません。今、神様は私たちの幸いのために聖書のことばを与えてくださいました。以前は、自分さえ良ければという生き方をしてきました。その結果は、不安と憎しみでした。ここに本当の平安があります。人は神様に創られた者です。私たちは神様のもとに帰る時、はじめて、幼子が母親に抱かれるような本当の平安を得ることができるのです。