「救い主と十字架」マタイの福音書27章27節~51節
神の子であるイエス様がなぜあのようなみじめな姿で、十字架に付けられて殺されなければならなかったのでしょうか。救い主である神の子が苦しみをうけることは、旧約聖書の二か所で預言されていました。
(1)創世記3章15節「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」この個所は、アダムとエバが罪を犯した後に、神様によって二人に与えられた刑罰の中で神様が言われた言葉です。本来、神様の戒めに逆らった二人に与えられる刑罰は死でした。しかし、神様は女には産みの苦しみ。男には労働の苦しみだけを負わせ、命は取られませんでした。しかも、この時点で神様は二人が犯した罪の問題を解決するために、一人子イエス様に人の罪を背負わせることを決心されていたのです。「おまえの子孫」は悪魔を指し、「女の子孫」はイエス・キリストを指しています。また、悪魔の子孫が女の子孫のかかとにかみつくことは、悪魔がイエス・キリストを十字架につけて殺すことを預言し、女の子孫が悪魔の子孫の頭を踏み砕くことは、イエス様が死より復活して悪魔の計画を踏み砕くことを預言したことばでした。
(2)イザヤ書53章「苦難のしもべ」(長いので省略)です。預言者イザヤはイエス様が生まれる約700年も前に、救い主が苦しみを受けることを幻で見ました。その姿は、尊厳も威光もなく、みじめな姿だったのです。2節「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」3節「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔をそむけるほどにさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」預言者イザヤは神によって遣わされる救い主が、さげすまれ、苦しみを受ける姿を見たのです。また、その苦しみは私たちの咎のためであることを預言しました。10節「しかし、彼を砕いて、痛めることは、主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のいけにえとするなら、彼は末永く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。」とあります。
イスラエルの民は、神様への不信仰のために国は滅ぼされ、捕囚の民となってしまいました。神殿も壊された彼らは、自分たちの不信仰を反省し、外国の地で神様を礼拝するために会堂を建てました。また、彼らは神様のことばである旧約聖書を研究し、どのように生活すれば神様の御心に叶った民に成れるのかを研究しました。そして生まれたのが律法です。イエス様が誕生した時代、すでにユダヤ教は完成され、律法学者たちによって指導されていました。しかし、それほど旧約聖書を研究し、神様の戒めを熱心に守る律法学者パリサイ人たちが、イエス様の登場を恐れ、十字架につけて殺してしまったのです。彼らがイエス様を神の子(救い主)として受け入れなかった理由は二つあります。
(1) 偉大な神が罪人として生まれるわけがないという強い考え。
彼らにとって神は偉大なお方で、近づくことさえ許されない聖なるお方です。その神が人として生まれ、罪人の中に共に生活するなど受け入れられなかったのです。それゆえ、イエス・キリストが自分と神とが一つであるとか、神に対して父と呼びかけることに怒りを感じ、裁判の時にも、死刑の判決を下すために、「あなたは神の子かどうか言いなさい。」と問い詰め、イエス様を神を冒?した罪で死刑の判決を下したのです。
(2) 人々は、救い主にユダヤの国の再建を望んでいた。
イエス様はご自分の宣教の働きの中で、一度もご自分の事を救い主(メシヤ)ということばを使いませんでした。(人の子ということばを使いました。)それは、人々が求めた救い主が、ローマ政府の支配からユダヤの国を救い出し、独立国家を立ち上げる指導者の姿をイメージしていたからです。初め人々はイエス様の奇蹟を見て驚き、イエス様を王としようとしたとあります。しかし、イエス様はそのような軍事的、政治的な働きは一切、なさいませんでした。それゆえ、人々はイエス様に失望し、イエス様から離れてしまったのです。また、当時、ユダヤ教の指導者になるためには、専門の学校がありました。しかし、イエス様はそのような所で専門に神様の教えについて学んだ者ではありませんでした。イエス様は、ナザレ(田舎)出身の大工の息子でした。もし、イエス様が貴族や祭司の家柄であれば、律法学者たちもイエス様の話に耳を傾けたかもしれません。しかし彼らにとって、イエス・キリストは無学で身分の卑しい者にすぎなかったのです。神様のご計画は、人の考えにまさるもので、誰も、神様の計画を理解することはできなかったのです。
人は、他者から憐れみを受けることを喜びません。しかし、もし、旅先でけがをしたときはどうでしょうか。誰かが、大丈夫ですかと声をかけてくれ、近くの宿屋まで背負って連れていきましょうと言ってくれたらどうしますか。それでも、結構ですと強がるか、それとも、素直に憐れみを受けるでしょうか。神様は私たちの罪の問題を解決するために、ひとり子イエス様を犠牲にささげてくださいました。それは、神様の私たちに対する憐れみです。しかし、律法学者パリサイ人たちは、その神様の憐れみを拒み、自分の力で罪の問題を解決する道を選んだのです。私たちはどうでしょうか。一番初めに読みました聖書の個所はイエス様が苦しんで殺された場面です。私たちの罪は、それほど重く、神の子があれだけ苦しみを負わなければ赦されないものです。私たちが努力して解決できる問題ではありません。それゆえ、神様はアダムとエバが罪を犯した後、すぐにその解決の道を決心されたのです。私たちは、神様の憐れみに対してどのように応えるべきでしょうか。