救い主の姿を見た預言者イザヤ

「救い主の姿を見た預言者イザヤ」イザヤ書53章1節~12節

イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスの日が近づきました。デパートや商店街でもクリスマスの飾りが目立つようになりました。クリスマスをどうして世界中で祝うのか、多くの人々は、その意味を知らずにクリスマスの日を過ごしています。マタイの福音書1章で、イエス様が生まれる前に、マリヤの夫ヨセフに主の使いはこのように伝えています。21節「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」イエス・キリストの誕生は、私たちを罪から救い出すための神の子の誕生です。イエス様が生まれた時代、ユダヤの国はローマ政府に支配されていました。そこで、ユダヤ人たちは、ローマの支配からユダヤの国を助け出す救い主を待っていました。それゆえ、イエス・キリストが30歳で宣教の働きを始められた時、多くの人々がイエス様に期待をしました。しかし、イエス様は、貧しい人々を助け、病人をいやすだけで、ローマ政府に対して何の働きもしませんでした。それゆえ、ユダヤ人たちはイエス様に失望し、イエス様から離れてしまいました。それを見た律法学者パリサイ人たちは、イエス様を捕らえ、十字架に付けて殺してしまったのです。

神様はモーセやダビデを通して、イスラエルの民に救い主を与えるという預言のことばを与えていました。特に、イスラエルの国が滅ぼされ、バビロニヤに捕囚として連れて行かれた時代(苦しみの時代)のイスラエルの民は、この神様からの預言にすがり、神様はもう一度イスラエルの国を顧みてダビデの時代のような繁栄を与えてくださると信じました。そして、人々はそのような偉大な王、革命家を求めるようになったのです。しかし、神様が与えてくださった救い主はそのような勇壮な姿の救い主ではありませんでした。イザヤはイエス様が生まれる700年も前の預言者ですが、彼は、幻で救い主の姿を見ることができました。しかし、その姿は、人々が期待するような勇壮な姿ではありませんでした。イザヤ書53章2節「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」3節「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」5節「しかし、彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあります。おおよそ、イザヤが見た救い主の姿は、イスラエルの民が待ち望んだ勇壮な姿ではありませんでした。

使徒の働き8章26節にある記録です。エチオピヤの高官が、エルサレムでの礼拝の帰り道、馬車の中でイザヤ書を読んでいました。御使いはピリポに彼の所に行くように命じました。ピリポが馬車に近づくと、イザヤ書を読む声が聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と声をかけました。イザヤ書は旧約聖書の中でも有名な個所ですが、また、ユダヤ人にとっても難解な個所でした。高官はピリポに答えました。31節「導く人がいなければ、どうしてわかりましょう。」そして、ピリポに馬車に乗って、一緒に座るように頼んだのです。彼が読んでいた個所は、先ほどのイザヤ書53章でした。また、特に彼が聞きたかったことは、7節8節に記されている、傷めつけられ、さげすまされ、最後には殺されてしまう人物の事でした。彼はピリポに尋ねました。34節「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」ピリポはこの聖句から、イエス・キリストについて宣べ伝えたとあります。ユダヤ人たちは、ここに登場する苦難のしもべについて、はっきりと説明することができませんでした。しかし、キリスト者は、この苦しみを受ける者こそ、イエス・キリストであり、この個所はイエス・キリストが受けた、十字架の苦しみと死を現わしていることを、はっきりと理解していました。エチオピヤの高官は、ピリポの説明を聞いてすぐに洗礼を受けることを希望しました。ピリポも彼の真剣な態度を見て、彼に洗礼を授けたのです。

イエス・キリストが神の子であり、救い主であるということは、イエス様が数多くの奇蹟を行ったからではありません。イエス様以外にも、世界中を見渡すなら、イエス様のような奇跡を行った人々は数多くいることでしょう。それでは、なぜ、私たちはイエス様が神の子であり、救い主であると信じているのでしょうか。それは、イエス様が旧約聖書に預言されていた人物だからです。イエス様の生涯を見るなら、イエス様はいくらでも十字架の死から逃れることは出来ました。また、イエス様の力からすれば、全世界を支配することもできたことでしょう。しかし、イエス様は自ら捕らえられ、あえて、死刑になることを知った上で、自分が神の子であることを認められたのです。普通に考えるならば、だれが十字架に付けられ殺されることを望むでしょうか。もう一度言いますが、イエス様は、ご自分を捕らえに来た兵隊から逃げることは出来たのに、あえて、逃げませんでした。自ら捕らえられ、自ら十字架による死刑を選ばれたのです。イエス様が捕らえられる前、ゲッセマネの園でこのように祈っています。マタイの福音書26章39節「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」この杯と言うのは、十字架の死を表しています。イエス様はこの祈りを三度されたとあります。この祈りによってイエス様はご自分が人々の罪の身代わりとして十字架で死ぬことが神様の御心であることを理解して、自ら捕まり、十字架の死を自らお受けになられたのです。

クリスマスは、私たちの罪の身代わりとして生まれてくださった、神の子の誕生を祝う日です。日本ではプレゼントを配るサンタクロースが主役になっていますが、本来は、馬小屋でお生まれになられた、神の子イエス・キリストの誕生を祝う日です。神様は、私たちの罪を赦すために、ご自分のひとり子をこの地上に送って下さいました。実は、イエス様こそ、神様が私たちに与えてくださったクリスマスプレゼントなのです。このプレゼントは全ての人にただで与えられるプレゼントです。また、そのプレゼントは、私たちが天国で永遠に暮らすことができるという希望を与えるプレゼントなのです。