新しい人生、マタイとニコデモ

「新しい人生、マタイとニコデモ」コリント人への第二の手紙5章17節

私たち人間が天地を創られた神様と出会うと言うことは、どれほど大きな意味があるでしょうか。今日は、イエス・キリストと出会って大きく人生が変えられた人、マタイとニコデモから学びます。

1.マタイ
マタイは、イエス様が選ばれた12使徒の一人で、マタイの福音書の著者です。彼は、自分とイエス様との出会いを、マタイの福音書9章で自ら紹介しています。9節「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、『わたしについて来なさい。』と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。」とあります。ここに書かれているようにマタイは、取税人という仕事をしていました。当時、ユダヤの国はローマ政府に支配され、ユダヤ人はローマ政府に税金を納めていました。ローマ政府は、自分たちで税金を集めることをせず、その国の国民を雇い、税金を集めさせていました。取税人は同じ国民から税金を集めローマ政府に税金を納める者ですから、ユダヤ人たちは、彼らを嫌い、罪人と呼び、異邦人と同じように親しい付き合いをしませんでした。そのような、同じ国民から嫌われる仕事をマタイはどうしてしていたのでしょうか。取税人はローマ政府から委託された仕事で、彼らは、高く税金を集めて、私腹を肥やしていました。ユダヤ人が、ローマ政府に訴えても、彼らは取り合わず、取税人は自由にお金を儲けることができたのです。マタイがこの仕事を選んだのは、お金儲けのためだと考えられます。しかし、そのマタイがどうして、イエス様に一言「わたしについて来なさい。」といわれて、すべてを捨てて、イエス様の弟子になる決心をしたのでしょうか。聖書には書かれていませんが、当時、すでにイエス様のことは、その地方に知れ渡っていました。マタイもどこかでイエス様の説教を聞いたのではないでしょうか。そして、彼は自分の生き方に疑問を持ち始めていた。お金を儲けて贅沢な生活をするそれが本当の幸せだろうか。そんな時にイエス様に呼ばれて、彼はすべてを捨てイエス様の弟子となることを決心したのではないでしょうか。マタイの福音書13章44節から、イエス様は天の御国について、三つのたとえ話をされました。(1)44節「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝らを見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(2)45節46節「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。第一の例えで、当時の商人は今のように銀行がなかったので、その町の売上を、土を掘って隠しながら旅を続けたそうです。そして、ユダヤの法律では、畑にあるすべての物は所有者のものとなります。それゆえ、この土の中から宝を見つけた者は、宝を自分の物とするために、自分の持ち物を売って、その畑を買い取り、その宝を合法的に自分の物としたという例え話です。第一と、第二のたとえ話に共通することは、すばらしい物(宝、真珠)を見つけたとき、それを自分のものにするために自分の持ち物すべてを売り払って、もっとすばらしい物を自分のものにしたという点にあります。マタイは、お金を儲けて豊かな生活をすることを目的に生きてきました。しかし、彼は、イエス様と出会ってもっとすばらしい生き方を見出したのです。それゆえ、彼は、取税人という仕事を捨てて、イエス様の弟子となり、イエス様に従っていったのです。

2.ニコデモ
ニコデモについては、ヨハネの福音書3章に登場します。1節2節「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。『先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたのなさっているようなしるしは、だれも行うことができません。』」ここに「ユダヤ人の指導者であった。」とあります。当時は、ローマ政府の支配下にありました。しかし、ローマ政府は、ユダヤの国に対して自治権を与えていました。それで、ユダヤの国は、70人の議員を選び、サンヘドリンという議会によって国を運営していました。ニコデモがユダヤ人の指導者であるということは、今で言えば、国会議員に当たる高い地位の人であることを示しています。ニコデモがなぜ、夜にイエス様を訪ねたのか、その理由は、ひと目を避けてイエス様のところに来たということです。他の議員や、指導者たちは、イエス様のことを誰一人ユダヤ教の教師と認めていませんでした。そんな中、ニコデモだけは、イエス様のなされている奇跡を通して、神から遣わされた者と認めて、イエス様に会いに来たのです。そのニコデモに、イエス様はいきなり本題に入りました。3節「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモがイエス様に聞きたかったこと、それは、「人はどうすれば神の国(天国)に入ることができるかという質問でした。それに対して、イエス様は、「新しく生まれなければ神の国を見ることができません。」と言われたのです。ニコデモはイエス様の言われたことがわからず、4節「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」と質問しました。5節~8節「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くのか知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」イエス様は、神様によって霊的に生まれることを説明しましたが、ニコデモは理解できませんでした。しかし、後には理解してイエス様の弟子となりました。ヨハネの福音書19章38節から42節で、もう一度、ニコデモが登場します。彼は、アリマタヤのヨセフとともに、十字架に付けられ殺されたイエス様の体を、総督ピラトから受け取り、埋葬の準備をして新しい墓に納めたとあります。どうして、ふたりはそんな危険なことをしたのでしょうか。イエス様の体を受け取るとは、イエス様との関係を認めるということです。イエス様の弟子たちは、人々を恐れて部屋に隠れてお祈りをしていたとあります。だれも、十字架に付けられ殺されたイエス様に近づかなかったのです。ここに、ニコデモの決心を見ることができます。イエス様の弟子になるということは、議員である資格を失うことになります。ニコデモは、それでも、イエス様の弟子となることを選んだのではないでしょうか。初め、彼はイエス様の言われた新しく生まれるという意味を理解することはできませんでした。しかし、イエス様の死を通して、新しい生き方、新しい人生を彼は見出したのではないでしょうか。

聖書には、他にも、多くの人々がイエス様によって人生が変えられた人々の話があります。今、私たちも、聖書を通してイエス様と出会い、新しい人生を自分のものとすることができるのです。新しい人生とは、新しい価値観を持つことです。目に見えるものや、人の賞賛を得る道ではなく神と共に歩く人生です。これこそが、人に必要なものであり、本当の人生なのです。