「日々自分の十字架を負う」ルカの福音書9章23節~27節
宗教にも色々あり、ご利益宗教と呼ばれる宗教もたくさんあります。この神様を信じればお金持ちになれる。商売繁盛。病気が治るなど、人々が求めている必要に応える宗教はたくさんあります。人は自分の願いがかなうためには大きな犠牲もいといません。病をいやすためといって多額のお金を奪われる犯罪も過去にたくさんありました。それなどは、人の弱みに付け込んだ悪質な宗教と呼ぶことができるでしょう。第三者は、どうしてあんないんちき宗教に騙されるのか不思議に思いますが、当人にしてみればこの病が治るためならという思いに目がふさがれて、知らぬ間に大金を奪われてしまうのです。
イエス様が公に登場し、数々の奇蹟を行うことによってイエス様の名前はイスラエルの国を超えて、広く周りの国々にも伝わるようになりました。また、ユダヤの人々は、イエス様に旧約聖書が約束しているメシヤ(救い主)を期待し、イエス様がエルサレムに入る時には大騒ぎとなりました。ユダヤ人は皆、イエス様がローマの兵隊を奇蹟の力で追い出し、ユダヤの国の独立させてくださると期待していたのです。しかし、イエス様はそのような働きは一切なさいませんでした。ユダヤ人たちのイエス様への期待は裏切られ、人々はイエス様から去っていきました。
実は、イエス様の弟子たちも同じようにイエス様にそのような期待を寄せていたのです。弟子たちは、イエス様がユダヤの国を建て直すならば、自分はその弟子として高い地位に付ける、出世できると心の中で考えていたのです。そこで、イエス様は弟子たちに自分のことを誰だと言いますかと問いかけたのです。ペテロは弟子たちを代表して「神のキリスト(メシヤ)です。」と答えました。それを聞いてイエス様はペテロにこのように言われました21節「するとイエスは、このことをだれにも話さないようにと、彼らを戒めて命じられた。」とあります。それは、弟子たちが先程のようなこの地上を治めるメシヤの姿をイエス様に見ていたからです。そしてイエス様は弟子たちに言われました。22節「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺されて三日目によみがえらねばならないのです。」イエス様は弟子たちにこれから起こる苦しみと復活について弟子たちに教えられましたが、弟子たちはイエス様のことばを理解することはできませんでした。マタイの福音書では、ペテロはそれを聞いてイエス様に、そんなことがあなたに起こるはずがありませんとイエス様をいさめたとあります。また、イエス様はそんなペテロに下がれサタンと強いことばでペテロをしかったとあります。そして、イエス様は弟子たちに23節「だれでもわたしについて来たいと思うなら自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と言われたのです。「日々自分の十字架を負う」とはどういうことでしょうか。この後、イエス様が山の上で御姿が変り御衣は白く光輝くと言う場面が描かれています。「変貌山」と呼ばれる出来事です。イエス様は山の上で、弟子たちにご自分の本当の栄光の姿を見せられたのです。神の子イエス様の姿は光り輝くほどのまばゆい姿です。しかし、イエス様は人の子として生きるために、私たちと同じ姿で人として生きられたのです。また、イエス様は祭司長たちに捕えられる前、ゲッセマネの園で汗が血のように流れるほど切に父なる神に祈ったとあります。イエス様にとっても十字架に付けられ殺されることは避けたい道でした。しかし、イエス様はその祈りの中で、十字架の死が神様の御心であることを知り、あえて、十字架の道を選ばれたのです。十字架とは喜んで背負うものではありません。自ら喜んで苦しみを選ぶ人はいません。しかし、イエス様は自分を捨て神様の御心に従ったのです。これが日々自分の十字架を負うということです。私たちには、自分の考え、計画があります。しかし、日々自分の十字架を負うとは、自分の考え自分の計画を捨て神様の計画に従うと言うことなのです。先程のご利益宗教は、自分の願いのためならなんでもする、大金でも捧げる。それがご利益宗教の姿です。しかし、それは、神を自分の願いを叶えるために利用することなのです。キリスト教はその反対で、神様のために自分の考え願いを捨てる所から信仰が始まるのです。なぜ、私たちはそこまでして、自分を捨て、日々、自分の十字架を負わなければならないのでしょうか。24節25節でイエス様はこのように言われました。「自分のいのちを救おうと思うものは、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い損じたら、何の得がありましょう。」確かに、神様の御心に従うことによってこの地上の物(財産、名誉、誉れ)は失うかもしれません。しかし、私たちはそれ以上の物を神様からいただくのです。この世での生活はいつかは終わり、私たちは全てを失います。しかし、神様の御心に従った者には、天国での永遠の生活が保障されているのです。
イエス様はマタイの福音書13章44節~46節で天の御国についてこのようにお話になられました。「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」イスラエルの法律では、畑の中にある物は全て土地の所有者のものとなります。初めのたとえは、畑の中に宝を見つけた者は、その見つけた宝を合法的に自分の宝にするために、全財産を売って畑を買い取り宝を自分の物としたというお話です。このお話しと、真珠の商人のお話の共通点は、価値あるもの(宝、真珠)を自分の物とするために、自分の財産を売り払って自分の物とした点です。ここでイエス様が教えようとしていることは、天の御国がそれほどすばらしいものだということです。先程の、ルカの福音書のイエス様のことばでは、全世界を自分の物とすることよりも天の御国は価値があるということです。
ある人にこの話をしたところ、その人は言いました。「将来、行けるかどうかわからない天国よりも、今、幸せになることを考えたい。」私はそれ以上、その人に話すことばがありませんでした。自分を捨てるとは決して、不幸になるということではありません。自分の願い幸せではなく、神様が私に下さる幸いを受け取るということです。自分が願う幸せと神様が下さる幸せ、どちらが本当の幸いでしょうか。また、十字架を背負うとは、イエス様と共に歩むと言うことです。以前は、自分の力、知恵に頼って生きてきました。今は、神様に信頼して歩むようになりました。そして、以前より生きるのが楽しくなりました。それは、将来、神様から与えられる宝のすばらしさを知っているからです。