最後の晩餐と新しい契約

「最後の晩餐と新しい契約」ルカの福音書22章14節~20節

今日の聖書の場面は、最後の晩餐の場面で有名な箇所です。また、この箇所は私たちが毎月第4聖日に行われる聖餐式のもととなった大切な場面です。この場面でイエス様は、弟子たちにパンとぶどう酒を与えました。そして、そのパンがイエス様の体であり、ぶどう酒が十字架で流される新しい契約の血であると言われたのです。

そもそも、この最後の晩餐が過越しの祭りの時に行われたことに深い意味があります。過越の祭りは旧約聖書出エジプト記に登場する古い出来事が祭りの由来となっています。イエス様が生まれる約1500年前、イスラエルの民はエジプトの国で奴隷の状態でした。この時、イスラエルの民はこの苦しみから助けてくださいと神様に祈りました。そして神様がイスラエルの民をエジプトの国から助けるために誕生させたがモーセです。モーセは40歳までエジプトの王の娘の子として宮殿で育てられ、その後、エジプトの王宮から逃れ、80歳まで、荒野で羊飼いとして生活しました。この80歳になったモーセに、神様はエジプトに住むイスラエルの民を助け、神様がアブラハムに約束したカナンの地に導くように命令されたのです。

モーセはエジプトの王にイスラエルの民を荒野に行かせるように何度も頼みましたが、しかし、エジプトの王はモーセの言葉に耳を傾けませんでした。そこで、モーセはエジプトを十の災害で苦しめました。その十番目の災害が、エジプトにいる全ての初子(最初に生まれた男の子)のいのちを奪うという災害でした。しかし、イスラエルの民にはモーセを通して一つの約束が与えられていました。それが子羊を殺し、その血を門とかもいに塗りなさいという命令です。神様はその血を見て、その家を通り越すと約束されたのです。その約束通りエジプト中の初子は死にましたが、イスラエルの家ではだれも死にませんでした。それは、神様がその血を見てその家を通り過ぎて行かれたからです。神はその日をイスラエルの民が忘れないように、過越の祭りを毎年守るように、イスラエルの民に命じられたのです。イスラエルの民の初子が守られたのは、イスラエルの民の門とかもいの血を見られた神様がその家を過越されたからでした。これがイスラエルの民に与えられた古い契約(約束)です。また、モーセに与えられた十の戒め(十戒)、旧約聖書を通して神様がイスラエルの民に命じられた戒め(約束)それが古い契約です。

最後の晩餐の後、イエス様は自ら捕らえられ、裁判にかけられ十字架に付けられ、殺されるという重い刑罰が言い渡されます。イエス様にとってこの食事は弟子たちとの最後の食事であり、弟子たちに命じられる最後の時です。イエス様はこの大事な最後の食事のときに、弟子たちに、パンとぶどう酒を与え、このパンが「あなたがたに与えるわたしのからだです。」と言われ、また、杯をとって「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」と言われたのです。明らかに、この出来事は、後の、十字架の苦しみと死を意味した出来事です。また、これを覚えて行いなさいと、イエス様が弟子たちに言われたのです。

現在の聖餐式は私たちにどのような意味があるのでしょうか。聖餐式の意味は教派によって違いがあります。カトリック教会では、司祭がささげる祈りによって、パンとぶどう酒が本当にイエス様の体と血になると信じて聖餐の恵みにあずかります。宗教改革で大きな働きをしたカルバンは、聖餐式のパンとぶどう酒は、イエス様の体と血の象徴であり、信仰者が信仰を持ってパンとぶどう酒をいただくなら、神様の恵みとして、聖霊の働きによってパンとぶどう酒がイエス様の体と血になると教えました。多くのプロテスタント教会ではこの教えを受け入れています。それゆえ、このパンを食べ、ぶどう酒を飲むことができるのは、信仰を告白して、洗礼を受けた者だけに限られているのです。

小手指アライアンスキリスト教会では、聖餐式は月に一度と定められています。しかし、その期間は教会によって違いがります。私の出身教会では三ヶ月に一度でした。半年に一度、一年に一度という教会もあります。そうなると、一度、聖餐式を休むと次の一年まで聖餐の恵みを受けられなくなります。それゆえ、その教会においては、聖餐式はクリスマスやイースターと同じくらい大切な日となります。聖餐式はそれほど大切な日で、軽く考えてはいけない日です。特に、このパンとぶどう酒は、十字架の上で裂かれたイエス様の体、また、ぶどう酒は十字架の上で流されたイエス様の血潮になるのです。また、聖餐式はイエス様が私たちに愛を示してくださる日です。普段、イエス様の愛は目で見ることができませんが。聖餐式を通して私たちは、毎回、イエス様の愛を確認しあっているのです。なぜなら、聖餐式こそ、イエス様の十字架の死を現しているからです。今日、月に一度の聖餐式です。信仰を持って、また、敬虔な気持ちを持って聖餐式に臨みましょう。