「東方の博士たちとクリスマスの恵み」マタイ2章1節~12節
今日は東方の博士たちが受けたクリスマスの恵みについて考えます。イエス様の誕生を、遠い東方の国からやって来た博士たちが、幼子イエス様を礼拝したお話は有名です。東方の博士たちがどの国からやって来たかはわかりません。しかし、南ユダの人々は、紀元前580年代にバビロニヤによって国が滅ぼされ、貴族や技術者など有能な者は、奴隷としてバビロニヤに強制的に移住させられました。その後、70年後に国を再建することが許され、国に帰った者もいましたが、多くの者はバビロニヤの国に残りました。彼らはバビロニヤの国で、会堂を建て神様を礼拝するようになりました。そして、ユダヤの歴史や宗教、学問などが、バビロニヤの文化にも影響を与えたと考えられています。また、東方の博士たちが星の動きを観察していたのは、天文学的な研究と言うこともできますが、当時の状況を考えるなら、占い師(占星術)と同じような者ではなかったかと考えられます。彼らは星の動きを見て天災(地震や飢饉など)や世界の動きを研究していたのです。そして、彼らはその研究によって、王様に仕える学者であったのです。もし、彼らがバビロニヤ地方から来たとすると、砂漠を越えてきたことになります。彼らは星に導かれて何カ月もかけて、旅をして幼子イエス様の所へたどり着いたのです。
東方の博士たちが星に導かれてエルサレムに着いた時、時の王であるヘロデ王に謁見し「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。」と尋ねました。それを聞いたヘロデ王は、恐れ惑ったとあります。ヘロデ王は、正式なユダヤの王ではなく、ローマ政府から派遣された王様です。もし、問題を起こせばすぐに退けられる不安定な地位でした。それゆえ、自分の知らない新しいユダヤの王が誕生したと聞いて、恐れ惑ったのです。後にヘロデ王は、自分の地位を守るために、ベツレヘムとその近辺で生まれた二歳以下の男の子を残らず殺すという恐ろしい行動をおこしています。
東方の博士たちの話を聞いて恐れたヘロデ王は、祭司や学者たちを呼び集め、キリスト(メシヤ・救い主)はどこで生まれるのか問いただしました。彼らは旧約聖書のミカ書を通して、ユダの地、ベツレヘムで生まれることをヘロデ王に伝えました。ヘロデ王は自分も後で幼子を拝むからと言って、東方の博士たちにそのことを告げて彼らを送り出しました。ここで、問題なのは、では、祭司たちは、東方の博士たちの話を聞いて、ユダヤの王としてうまれた幼子を礼拝するために出かけたでしょうか。祭司たちは幼子を拝みに行きませんでした。なぜ、神様に仕えるユダヤ教の指導者である彼らは、ユダヤ人の王として生まれた方の誕生を拝みに行かなかったのでしょうか。その理由として二つのことが考えられます。(1)東方の博士たちの話を信じなかった。(2)祭司たちは、ローマ政府から優遇を受け、豊かな生活をしていました。彼らには、新しいユダヤの王様、メシヤを待ち望む気持ちが無かった。(新しい王の誕生に興味がなかった。)
東方の博士たちははるばる長い旅をして、エルサレムに到着して、幼子の生まれる場所を聞き、喜びをもってベツレヘムに向かい、幼子がいる家を見つけました。そして、彼らがバビロニヤから持って来た、新しい王へのプレゼント、黄金、乳香、没薬をささげて、国に帰って行ったのです。
マタイの福音書は12使徒のマタイがユダヤ人に、イエス・キリストが救い主であることを伝えるために書いたものです。ユダヤ人はプライドが高く、自分たちは、アブラハムの子孫で、神に特別に祝福された民であることを誇っていました。それゆえ、自分たち以外の民族を異邦人と呼び、神に呪われた民と蔑んでいたのです。マタイは救い主の誕生の場面を、あえて異邦人(東方の博士たち)が幼子を礼拝したことを伝えました。また、ユダヤ教の指導者である祭司たちがイエス様の誕生を無視した大きな罪を指摘しているのです。しかし、それは、図らずも、救いがユダヤ人ではなく、異邦人(世界中の人々)に向けられることの預言的な出来事でもあったのです。
イエス様が成長し、30歳になってから宣教の働きを始められました。イエス様が神様のことばを伝えたのは、貴族や祭司たちではなく、一般の市民でした。その中には、ローマ政府に雇われた取税人や律法を守れない貧しい人々もいました。ある時、イエス様がそんな取税人や罪人(貧しい人々)と食事をしているのを見て、パリサイ人たちがイエス様を批判しました。パリサイ人律法学者たちは自分を清く保つために、罪人や取税人たちと決して一緒に食事などしなかったからです。イエス様は彼らの批判に対して、このように言われました。マタイの福音書9章12節「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」イエス様が引用されたのは旧約聖書のホセア書の御言葉です。神様はいけにえよりも隣人に対してあわれみを示すことを求めておられるという個所です。祭司、律法学者たちは自分たちは神様の戒めを熱心に守っているから、自分達には罪はないと信じていました。しかし、彼らは律法を守らない人々を罪人と呼び、彼らのけがれを受けないように、彼らに近づこうとはしなかったのです。しかし、神様が憐れまれようとされたのは貧しくて律法を守れない人々でした。イエス様はそれゆえ、彼らに近づき、神様の祝福のことばを伝えたのです。
医者を必要とするのは病人です。丈夫な者は医者を必要とはしません。それと同じように神様を必要とするのは正しい人ではなく、罪人です。祭司、律法学者たちは自分たちの罪を認めようとはしませんでした。東方の博士たちがエルサレムに来て、幼子の誕生を伝えたのも彼らに対する神様の恵みでした。しかし、祭司たちはそれを無視し、神様の憐れみを受け取らなかったのです。私たちはどうでしょうか。私たちは自分の罪の大きさを理解しているでしょうか。罪の大きさと神様の恵みは比例します。罪の自覚が大きければ大きいほど、神の恵みによってその罪が赦された人はより大きな神の恵みを体験します。イエス様は私たちの罪を一身に背負い、十字架の上で死んでくださいました。私たちの罪はどれほど大きなものでしょう。しかし、その罪がイエス様の死によって赦されたのです。それは、何事にも代えがたい大きな恵みです。クリスマスを前に、私たちの罪を背負い、十字架で死ぬためにお生まれになられた、救い主の誕生を心から喜んでお祝いしましょう。
また、祭司たちは自分たちの生活が守られているがゆえに、新しい変化(神様の恵み)を受けようとはしませんでした。私たちも同じように生活が豊かで、安定している時、変化を望みません。現状で満足しているからです。ストレスという言葉は良い意味にも悪い意味にも使われます。良いストレスとは神様からのチャレンジを意味します。神様は私たちを成長させようとして私たちにストレス(チャレンジ)を与えます。私たちはいつも、成長し、変わりたいと願っているでしょうか。「求めなさい。そうすれば与えられます。」とイエス様は群衆に言われました。私たちは常に神様に成長することを願っているでしょうか。新しい年を迎えようとしています。新しい一年、変化を恐れないで、神様の恵みを、たくさんいただく一年となりますようにお祈りします。