「父なる神」マタイの福音書6章9節~13節
今日は父の日です。父の日も母の日と同じように教会から始められました。ある教会で、妻を亡くし、男一人で、子供たちを育てた男性がいました。その後、子供たちが自立した後、その男性も亡くなりました。子供たちは、自分たちを苦労して育ててくださった父のために、教会で記念会を行いました。それから、その教会では、毎年、母の人同じように、6月の第三日曜日に父の日を祝うようになりました。そのことが、他の教会でも行われるようになり、アメリカ全土に広がり、今では、日にちは国により違いますが、父の日を世界中で祝うようになったのです。
旧約聖書では、神様のことを決して、親しく父と呼びかけることはありませんでした。それどころか、イスラエルの民にって、神様は偉大なお方であり、罪に汚れた人間が、神様に親しく呼びかけることさえ、許されない事だったのです。しかし、新約聖書において、イエス様は神様に父と呼びかけて祈っています。また、先ほどの弟子たちに教えられた主の祈りの中でも、「天にいます私たちの父よ。」と呼びかけるように教えられたのです。ここに旧約聖書と新約聖書の大きな違いがあります。パリサイ人、律法学者たちは神様の偉大さについてはよく理解していましたが、神様の愛がどれほど大きく、深いかを理解できませんでした。イエス様は本当の神の子でした。それゆえ、誰よりも神様のことを理解していたのです。そのイエス様が、群衆に対して、神様の愛について教えられたのが、あの有名な放蕩息子の例え話です。ルカの福音書15章11節から32節までのお話です。
放蕩息子のお話の中で、三人の人物が登場します。1,父、2,兄、3,弟です。前半分は父と弟息子との関係について書かれ、後半部分は父親と兄との会話が記されています。
(1)父と弟息子との関係。
まず、弟息子が父親が生きているにも関わらず、父が死んだ後、自分がもらえる父の遺産を父に求めまた。父はそのことに何も言わず、弟息子の要求に答えて、遺産を弟息子にわたしました。財産を受け取ると、弟息子は、家を離れ遠くに行ってしまいました。一人になった弟息子は、父からもらった財産を湯水のように使い果たし、食べるにも困るほど落ちぶれてしまいました。ユダヤ人にとって豚は汚れた動物です。彼は、生活のために豚の世話で生きていかなければならない状態になってしまいました。そこまで、落ちぶれたとき、彼は、初めて、自分の父のもとで生活していた頃のことを思い出しました。そして、父の家に帰る決心をしたのです。また、彼は自分の罪を認め悔い改め、こどもとしての資格を失った者として、父のもとで使用人として働く覚悟をして、家に帰る決心をしたのです。
ところが、弟息子が、家にたどり着く前に、父親が弟息子を見つけて、彼に走りより、彼を抱きしめたとあります。これは何を表しているかというと、父が弟息子の帰りを待っていたことを表しています。このおはなしで、父は神様、弟息子は、私たち罪人を指しています。イエス様がここで群集に教えようとされたのは、神様の愛の姿です。神様は私たち罪人がそのままの姿(罪人のまま)で神の前に帰ってくることを待っておられるということを伝えようとされたのです。
(2)父と兄息子の会話。
後半になって兄息子が登場します。兄息子は家で行われている宴会騒ぎを聞いて、しもべを呼んで、何の騒ぎかたずねました。すると、しもべは、弟息子が無事にお帰りになったことのお祝いの宴会であることを知らせました。28節「すると、兄はおこって、家に入ろうとしなかった。」とあります。なぜ、兄は怒って家に入ろうとしなかったのでしょうか。それは、父から、財産を受けて出ていって、落ちぶれた弟息子を何の条件もなく、受け入れたからです。真面目に父に仕え働いてきた兄には我慢できない事でした。そこで、父がわざわざ、兄息子のところまで出てきて兄息子をなだめたのです。しかし、兄息子は父に怒りをぶつけて言いました。29節30節「ご覧なさい長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことはありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」と言いました。
ここに登場する兄息子は、律法学者、パリサイ人を表しています。彼らにとって一番大事なことは、神様のために戒めを守り、正しく生きることでした。彼らにとって、神様の戒めを守ることのできない、貧しい人や取税人は、神様に呪われた者であり、祭司や律法学者たちは彼らに近づきもしなかったのです。彼らの考えは、神は偉大なお方であり、私たちユダヤ人も神様に選ばれた民として熱心に律法を守らなければならない、神は、律法を熱心に守る者を祝福してくださると信じていたのです。
このおはなしの結論は、32節のことばです。「だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」イエス様はなぜ、貧しい人々や取税人たちに近づき、神様のお話をされたのでしょうか。それは、彼らが自分の罪を認め、悔い改め、神様のもとに帰ることを神様が一番、喜ばれる事をイエ様が知っておられたからです。イエス様は律法学者、パリサイ人たちに,あなたがたも、貧しい人をあわれみ、助けてやるべきではないかと教えられたのです。
ヨハネの福音書1章12節で、ヨハネは、私たちが神の子となるのは、特権だと教えています。「特権」とは、誰でも持っているものではありません。選ばれた者だけにあたえられるものです。イエス様は私たち罪人にこの「神の子となる特権」を与えるために、十字架で苦しみいのちを犠牲にして下さったのです。本来、私たち罪人は、神を父と呼ぶことのできないものでした。しかし、私たちはイエス様を通して、神の子となり、神を父と呼びかけることを許された者とされたのです。それは、まさに「特権」です。新約聖書の恵み、それは、私たちが神を「父」と呼ぶことができる身分を与えられたという事です。また、それは、私たちが努力して得たのではなく、イエス様の贖いと神様の愛のゆえなのです。