ヨハネの福音書5章19節~29節
先週は、病の癒しのために38年もの間ベテスダの池に横たわっていた人が、イエス・キリストによって病が癒された場面からか学びました。しかし、その日が安息日であった為、ユダヤ人たちが彼を咎めました。それは、安息日に床を取り上げて歩くことは、神の戒め律法に反する行為だったからです。また、ユダヤ人たちは安息日に病を癒したという事で、イエスを迫害したとあります。17節「イエスは彼らに答えられた。『わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。』」と彼らに答えられました。18節「そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っていただけではなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。」とあります。安息日は、神が創造の御業を六日間で完成され、七日目を祝福するために神が休まれたことに由来しています。しかし、安息日は神がお休みして働かない日ではありません。神は安息日でも必要な働きはしておられます。それゆえ、イエスも安息日であっても必要な働きをしているという意味です。ユダヤ人にとって神は天地の創造主であり、偉大なおかたです。その神を父と呼び、罪ある者が神と自分を等しくすることは、神を冒涜することで、死刑に値する大きな罪なのです。それゆえ、ユダヤ人たちは、イエスを迫害し殺そうとまで憎んだのです。日本は多神教の国です。自然から動物、人間までも神として崇めています。それゆえ、イエスがご自分の事を神と等しくしたとしても違和感はありません。しかし、唯一の神を信じるユダヤ人にとってそれは、絶対に許されない行為なのです。
19節20節「イエスは彼らに答えて言われた。『まことに、まことにあなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。』」父なる神と子なるキリストは神の愛によって結ばれ、信頼関係が確立されています。それが、父なる神と子なるキリストが一つであるという意味です。また、その信頼のゆえに、子は父がなさることを行い、父が子に示すこと以外は行わないという意味です。21節「父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。」私たちは神によっていのちが与えられました。また、同時に私たちのいのちは神の御手のなかにあります。それゆえ、私たちは自分の力で生きているのではなく、神によって生かされている者です。その絶対的な権威を父なる神だけではなく、子なるイエス・キリストもお持ちだということです。22節23節「また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、全ての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わした父を敬いません。」父なる神様は、イエス・キリストをこの地上に遣わすことによって、救われる者と救われない者に分けられました。また、イエスを神の子と信じる者はそのイエスを遣わされた父なる神を褒めたたえます。しかし、イエスを神の子と信じない者は、そのイエスを遣わされた父なる神を信じないことで、父なる神を蔑むことになります。そういう意味で、すべてのさばきが子なるイエス・キリストに委ねられたということです。24節「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」永遠のいのちと、この世のいのちとは大きな違いがあります。この世のいのちは制限があり、終わりがあります。しかし、永遠のいのちとは、永遠に続くいのちの事で終わりがありません。それは、この地上の事だけではなく、天の御国においても永遠に生きるいのちです。また、イエス・キリストはこの永遠のいのちを私たちに与えるために、十字架の上でご自分のいのちを犠牲にされました。私たちは、イエス・キリストの贖いを信じる信仰によって罪赦された者となり、神のさばきから救われる者になりました。その事によって私たちクリスチャンは神のさばきにあうことがなく、死から(永遠の)いのちに移る者になったのです。25節~29節「まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時がきます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。その時、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出てきます。」最初の「死人が神の子のこえを聞く時」とは、霊的に死んだ人々、または、罪人たちの事を指しています。彼らはイエスのことばに耳を傾け永遠のいのちを与えられる人たちです。後の「墓の中にいる者がみな、・・・」とは、終末、世の終わりの事を表しています。終わりの時、すべての者はよみがえって神の前に立たされ、裁きを受けます。善を行った者イエス・キリストによって罪赦された者は天の御国に迎えられます。しかし、悪を行った者は、その悪の行いによって神のさばきを受けることになります。
律法学者パリサイ人たちは、旧約聖書を研究し律法を守ることによって、天の御国に入ろうと努力しました。しかし、彼らは、神の戒めに自分たちの考えた戒めを加えることによって、神の戒めを人間が考えた戒めに取り換えてしまいました。イエス・キリストは彼らの間違いを指摘し、神の御心を人々に伝えました。また、イエスはご自分が父なる神と同じ権威と力を持っていることを人々に示しました。貧しい人々はイエスのなさった、奇蹟を見てイエスの内に神の権威があることを認めましたが、律法学者パリサイ人たちは、イエスの奇蹟を見てもそれを悪霊によるものと考え、イエスの権威を認めませんでした。私たちは、今、直接、イエスと交わりその奇蹟を直に見ることは出来ません。しかし、聖書を通して父なる神と子なるイエス・キリストが一つであり、同じ権威をお持ちであることを知ることが出来ます。イエスが神の子であること、父なる神と同等の権威と力がある事は聖書が証明しています。それゆえ、私たちが聖書を神のことばと信じる時、イエスの処女降誕と死よりの復活だけではなく、聖書に記されたすべての奇跡を信じることが出来るのです。