「父の約束の聖霊」使徒の働き1章3節~8節
今日は、ペンテコステの記念日です。ペンテコステを日本の教会では聖霊降臨日とも呼びます。ペンテコステはギリシャ語で、日本語に訳せば五旬節という意味です。この五旬節の日は、ユダヤ教においても大切な収穫感謝のお祭りの日で、ユダヤ人の成人した男性は誰でもエルサレムの宮にお参りに来るように律法に定められていました。それゆえ、この日、エルサレムの神殿にはたくさんの人々が集まっていました。
また、ペンテコステはキリスト教会が誕生した記念日でもあります。聖霊が降るまで、弟子たちは、人目を避けて家で集まり、隠れてお祈りをしていました。そこに聖霊が降ると、弟子たちは聖霊に満たされ、めいめい、自分の知らない外国語で、神様の大きな御業を語りだしたのです。人々はそれを見て、おどろき、また、あきれたとあります。また、ある人はお酒に酔っているのだと弟子たちをあざけりました。ペテロは、この時、外に出て、大胆にこの出来事について説教をしました。すると、ペテロの説教によって多くの人々が心刺され、この日一日で、三千人が弟子に加えられたのです。それまで、人目を恐れて、隠れてお祈りしていた百二十名ほどの人々に、いっぺんに三千人が弟子に加わったのです。これは驚くべきことで、教会では、この日をキリスト教の誕生日と定めたのです。
先ほどお読みしました、使徒の働き1章3節から8節の中でイエス様は、弟子たちと三つのことを約束しています。
(1)4節「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」
(2)8節「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」
(3)8節「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証となります。」
(1)については、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が降ることによって父の約束が現実しました。また、(2)については、人目を隠れてお祈りしていた弟子たちが、聖霊により力をえて大胆にイエス様が神の子であることを証ししました。(3)については、地の果てとは世界中の意味で、現在、世界中に教会が建てられています。イエス様は使徒の働き1章4節で、弟子たちが伝道活動する前に、父の約束の聖霊を待ちなさいと言われました。別の言い方をすれば、弟子たちは、父からの約束の聖霊を受けるまでは、活動をしてはいけませんとイエス様が戒められたということです。また、弟子たちは約束の聖霊をいただいて、はじめて宣教の働きができたということです。ここでイエス様が力を受けますと言われたのは、弟子たちが不思議な力(奇跡やいやしの力を)受けるという意味ではありません。わかりやすく言えば、力なる聖霊を受けるという意味です。ここで私たちは正しく聖霊について理解しなければ、異端の働きである、エホバの証人のように聖霊を人格を持たないただの力(パワー)と誤った理解をしてしまいます。確かに聖書は聖霊を力として表現した個所が他にもあります。しかし、同じように聖霊を人格ある存在として紹介している個所もたくさんあります。例えば、聖霊に慰められる。聖霊を悲しませてはいけないなど。明らかに、聖霊を人格ある存在として説明しています。ここで、聖霊を理解するために、神様の性格である三位一体について理解しなければ、誤って神様の姿を理解することになります。
三位一体と言う言葉は聖書の中に出てきません。三位一体とは、教会の指導者、「教父」と呼ばれる、キリスト教の学者たちが旧約聖書と新約聖書を研究して導かれた神様の特別な性質です。それは、「神様と言う一つの人格の中に三つの人格、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神が共に共存し、調和しておられる。」ということです。なぜ、そのような結論に導かれたかと言うと、旧約聖書は唯一の神(創造主なる神)しかおられないと教えています。また、イエス様は旧約聖書を否定されませんでした。すると、旧約聖書を信じるならば、創造主だけが神様ですからイエス様は神ではない存在になります。(エホバの証人はそのように教えています。)しかし、新約聖書では、イエス様も聖霊も神と紹介しています。この新約聖書と旧約聖書を共に神のことばとするならば、この三位一体という神様の特別な性質を用いなければ、新約聖書と旧約聖書を統一することはできません。わかりやすく言えば、三位一体という神様の特別な性質は、新約聖書と旧約聖書をつなぐ、くさりの役目を果たしているということです。
また、その三つの人格にはそれぞれ役割があると教えられています。父なる神は創造主、子なるキリストは救い主。聖霊なる神は助け主。それゆえ、神が共におられる。キリストが共におられる。聖霊が共におられるというのは同じ状態を示しています。しかし、聖霊が弟子たちに降って、弟子たちが変えられたように、私たちと共におられ、共に歩んでくださるのは聖霊様なのです。英語の聖書では聖霊の事をカウンセラーという言葉で訳しているところもあります。カウンセラーは、相手に対して、説教をしたり、指示を与えてはいけないと教えられます。あくまで、本人の意思で決断し動けるように助けるのがカウンセラーの仕事です。聖霊が共におられるということは、私たちの生活をロボットのようにコントロールするという意味ではありません。聖霊は私たちを導きはしますが、従うかどうかを決定するのは本人です。間違った決断をして傷つくのは本人の責任です。しかし、本人が失敗しても、支え続けるのがカウンセラーの仕事です。それと同じように私たちが失敗しても、聖霊の導きに従わなくても、聖霊は永遠に共にいて支えてくださるお方です。しかし、聖書の個所に「聖霊を悲しませてはいけません。」という言葉があります。それは、私たちが聖霊の導きに従わない姿を見て聖霊が悲しんでおられるということです。聖霊は人格ある存在です。私たちが傷つくとき、聖霊様も共に悲しんでおられるのです。
マタイの福音書12章32節で言われた、「また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。」という言葉は、イエス様の働きを悪霊の働きと悪意をもって言うパリサイ人に言われた言葉です。神様の働きを悪意を持って邪魔する者は、この世であっても、次の世であっても赦されないとい言う意味です。<br>
聖霊は助け主であると共に慰め主でもあります。もし、イエス様が十字架で殺され、天に昇って行かれなかったら、聖霊は私たちの所に来ることはありませんでした。イエス様は、ご自分が弟子たちから離れて天に行かれる代わりに、聖霊様を私たちの与えてくださったのです。それは、私たちが信仰を持ち続けるためです。もう一度、イエス様のことばに耳を傾けてみましょう。使徒の働き、1章4節「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束(聖霊)を待ちなさい。」弟子たちが、クリスチャンとして歩むために、どうしても聖霊の助が必要でした。私たちの人生も同じです。私たちは、この地上で患難や苦しみに会います。その患難や苦しみに耐える力、乗り越える力を与えてくださるのが聖霊様なのです。