「父の約束の聖霊」使徒の働き1章3節~8節
ペンテコステ礼拝
今日はペンテコステの記念の日です。ペンテコステという言葉は、使徒の働き2章の1節「五旬節の日」に由来するギリシャ語の言葉です。この日は、ユダヤ教では「7週の祭り」または「初穂の日」とも呼ばれ、過越しの祭り、仮庵の祭りと並ぶ、ユダヤ教の三大祭りの一つに数えられる特別なお祭りの日でした。
この五旬節の日に、イエス様が弟子たちに約束された聖霊が降り、今まで、人々を恐れ隠れてお祈りしていた弟子たちが、外に飛び出し、異言(外国語)で神様の大いなる御業を宣べ始めたのです。また、ペテロは弟子たちを見て、不思議に思っている人々に、大胆に説教をしました。人々はペテロの説教に心刺され、この日一日で三千人が洗礼を受けて弟子に加えられました。これが教会の誕生の日となったのです。
- 神の性質、三位一体
「三位一体」とは、神様の性質を表した言葉です。神は、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神。この三つの人格を持った神が一つの調和された唯一の神です。三位一体という言葉は聖書の中には登場しませんが、聖書全体を通して導き出された真理です。この三位一体という神様の性質を信じなければ、私たちは旧約聖書か新約聖書どちらかを捨てなければならなくなってしまいます。なぜなら、旧約聖書は神はお一人だと教えています。それを信じるならば、新約聖書に登場する、イエス様も聖霊も神ではなくなってしまうからです。また、旧約聖書の神とイエス様、聖霊を神と信じるなら、旧約聖書で教えている、神様が唯一であるという教えを捨てて、三人の神様を信じることになってしまいます。聖書は神は唯一であると教えています。また、新約聖書においてイエス様も聖霊も神と教えています。この旧約聖書の教えと新約聖書の教えを一つにするためには、この「三位一体」という考えを受け入れるほかに旧約聖書と新約聖書を一つとする方法はないのです。
- 聖霊の人格
「三位一体」という教えを受け入れない、エホバの証人の人たちは、聖霊の人格を認めないで、聖霊を神の力と理解しています。しかし、聖書全体を見るならば、明らかに聖霊を人格のある的存在として聖書は表現しています。例、マタイの福音書28章19節「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」とあります。父と子が人格を持った存在で、聖霊だけが人格を持たない神の力であるなら、同列に並べるわけがありません。イエス様は、父と子と聖霊が同じ人格の存在だからこそ、父と子と聖霊の御名によってと言われたのです。
- 聖霊の力
使徒の働き1章4節で、イエス様は「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」と言われました。また、8節で、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」と言われました。では、私たちの上に聖霊が降った場合、私たちはどのような力を受けるのでしょうか。8節を続けてみると「そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」また、ペテロは聖霊に満たされて、イエス様のことを証しすると三千人の人々が弟子に加えられたとあります。イエス様が言われた聖霊の力とは、イエス様を証しする力、伝道する力を得ると考えたらよいでしょう。
- 助け主、聖霊
ヨハネの福音書において、イエス様は聖霊について様々な表現で聖霊を紹介しています。ヨハネの福音書14章16節「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」ここで「助け主」という言葉は、英語ではカウンセラー(ヘルパー)と言う単語が使われています。また、ギリシャ語では、パラクレトスという言葉が使われ、その意味は「援助のためにそばに呼ばれた者、とりなしてくれる人」を指す言葉が使われています。
私が今、学んでいるカウンセリングという言葉は、ここから取られたことばだと学びました。カウンセリングの基本は「傾聴」「共感」「受容」の三つと言われています。相手の話に耳を傾け、相手の苦しみや悲しみに共感(理解)し、相手をそのままで受け入れること。これが「傾聴」「共感」「受容」です。カウンセリングの実践の学びで体験したことですが、グループに分かれて、カウンセリングを受ける人とカウンセラーになって相手の話を約20分間、聞き続けます。何かを教えたり、指示は一切与えません。相手の話を聞き続けるだけです。すると多くの人々が、心が軽くなったとか、話を聞いてもらって良かったと感想を述べました。問題も解決していない、状況も変わっていないのに、多くの人々が、苦しみや悲しみに耳を傾けて聞いてもらっただけで、すでに心の中で変化は起き始めていたのです。自分の苦しみや悲しみを理解してくれる人がいるだけで、心は軽くなります。逆に誰も自分のことを理解してくれない、話も聞いてくれない状況はどれほど辛いものでしょう。カウンセリングは相手の苦しみや悲しみに寄り添う働きです。物事の解決は、そこから少しづつ本人の心が変化することによって、周りが変化しだすのです。
イエス様はヨハネの福音書14章18節で「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」と言われました。それは、死より復活して弟子たちの前に姿を現わすことを意味していたのかもしれません。しかし、もう一つ考えるなら、イエス様が天に昇られた後、父からの聖霊が与えられました。三位一体を考えるならば、イエス様の代わりに聖霊が弟子たちに与えられました。しかもそれは、永遠に共におられるお方です。私たちもイエス様を信じることによって聖霊を与えられました。私たちはこの目で聖霊を見ることは出来ませんが、確かに心の変化によって聖霊が共におられることを感じます。イエス様が地上にいる間、限られた人しかイエス様と共にいることは出来ませんでした。しかし、今は、聖霊の時代です。弟子たちと共におられた聖霊は今の私たちとも共におられるお方です。祈りは、自分の必要を神様に願うだけではありません。祈りとは、自分の苦しみ、悲しみを神様にぶつけることです。神様はカウンセラーとして私たちの祈りに耳を傾け、私たちを慰めてくださいます。私たちはこの目で、イエス様を見ることは出来ませんが、イエス様は聖霊なる神として、私たちの心の中に永遠に住んでくださるのです。