生ける水と生けるパン

「生ける水と生けるパン」ヨハネの福音書7章37節~39節

水というのは、私たちの生活には欠かせません。食べ物は40日食べなくても生きられますが、水は3日飲まなければ脱水症状を起こし死んでしまうそうです。日本は水が豊かな国で、蛇口をひねれば、ただで水を飲むことができます。実は、水はただではなく、どこの家庭でも水道代というものを水道局に支払っています。しかし、こどものころ私はそれを知りませんでした。水はただだと思っていました。それゆえ、水道の水を無駄に使ったりすると母からもったいないと怒られたものです。むかし、宣教師の先生に聞いたお話ですが、ある国の使節団がアメリカに視察旅行に来た時、彼らが一番驚いたのが、どこのホテルにおいても、蛇口をひねると水が大量に流れたことだそうです。そこで、彼らは、国のお土産に、蛇口を大量に買い込んで帰ったそうです。その人たちにとっては、蛇口をひねれば簡単に水が出るというのを何か、魔法の道具のように思えたのかもしれません。

1、生ける水。(ヨハネの福音書7章37節~39節)

先程、お読みしましたヨハネの福音書7章31節からのお話で、「さて、祭りの終わりの大いなる日に」とあります。イエス様が群衆に大声で叫ばれた「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と言われたその背景には、特別な意味がありました。このイエス様が叫ばれた祭りの大いなる日というのは、ヨハネの福音書7章からの続きと考えると、仮庵の祭りの最後の日ということになります。仮庵の祭りとは、秋に行われる収穫感謝のお祭りです。イスラエルの成人男性は、宮詣をしなければならないと戒められた大切なイスラエルのお祭りです。このお祭りは、出エジプトの後、イスラエルの民が40年の間、荒野をさ迷い歩いた際、神様が彼らを助け、水や食べ物を与えてくださったことを感謝するお祭りです。仮庵の祭りは7日間続きますが、その際、人々は、家の庭や広場に木でテントなどを作り、そこで生活する決まりになっていました。また、このお祭りは、雨乞いの祭りでもあり、祭司が、シロアムの池(ギホンの泉)から、金の柄杓(ひしゃく)で、水を汲み、群衆と讃美しながら共に神殿に上り、その水を祈って祭壇に注ぎました。また、祭りの最後の日、祭司は祭壇の周りを7回まわって、祈り祭壇に水を注いだそうです。イエス様が群衆に「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と言われたのは、人々が祭壇の周りに集まり、祭司が祭壇に水を注いでいる時ではないかと思われます。人々は、祭司がシロアムの池から金の柄杓(ひしゃく)で汲んだ水が、祭壇に注がれるのを見ていました。いかに荘厳で儀式的な光景であっても、その水はただの水で、いつかは無くなってしまいます。しかし、イエス様が与える水はそうではなく、「生ける水」絶えることがなく流れ続ける水だと言われました。ヨハネは後にその水は、「御霊」聖霊のことだと説明しています。

2、生けるパン。(ヨハネの福音書6章31節~35節)

このお話は、ヨハネの福音書6章でイエス様が5つのパンと2匹の魚で、男性だけで五千人以上の人々のお腹を満たした奇蹟の後、群衆とイエス様の会話の中でイエス様が語られたことばです。群衆はこの奇蹟を体験した時、モーセが荒野でイスラエルの民を40年の間、マナという食べ物で養ったことを思いだしました。31節「私たちの父祖たちは荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からのパンを与えて食べさせた』と書いてある通りです。」と言いました。イエス様は彼らに答えられました。32節33節「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からのまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」群衆はイエス様のことばを理解できず、食べるパンのことしか頭になく、イエス様に言いました。34節「主よ。いつもそのパンを私たちに与えてください。」そして、イエス様は群衆に言われました。35節「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」イエス様はご自分のことを「天から下って来たパンである。」と言われました。その意味は、ご自分のいのちを通してのみ、人は救われる、永遠のいのちを持つという意味でした。イエス様はご自分のいのちとパンを重ねて説明されたのです。しかし、群衆はイエス様の言われた意味を理解できませんでした。また、イエス様は言われました。53節~54節「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、私の血を飲むものは、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」ユダヤ人は厳格に食べてよい動物と食べてはいけない動物が分けられていました。また、旧約聖書には、血を食べてはならないと明確に禁じられていました。それゆえ、イエス様のことばを聞いた人々は、60節「そこで、弟子たちのうちの多くの者たちが、これを聞いて言った。『これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。』」そう言って多くの者がイエス様から離れていったとあります。「人の子の肉を食べる」とか「その血を飲む」ということばは、ユダヤ人にとってはショックなことばだったでしょう。イエス様はこの後、十字架に付けられ私たちの罪の身代わりとしていのちを犠牲にされます。神の子が十字架に付けられ殺されたことを信じることによって救われるということは、ユダヤ人にとっては、人の肉を食べ人の血を飲むこと以上に難しいことではなかったでしょうか。それゆえ、イエス様は、人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ救われないと言われたのではないでしょうか。

3、結論

イエス様が群衆に言われた、「生ける水」と「生けるパン」は同じことを群衆に伝えようとされたことばです。私たちは神によって創られた作品です。私たちの心は、この世の物で満たすことはできません。あのサマリヤの女性は5人の男性と生活を繰り返しましたが、心の渇きをいやすことはできませんでした。彼女はイエス様と出会って、神様の話を聞き、初めてまことの神が誰であるかを知りました。私たちは神様の作品で、神様以外では心の渇きを満たすことがでできない存在です。イエス様を神の子と信じた時から、神様との新しい生活が始まります。神を知るとは、前回、学んだように神様の存在を知るということではありません。神を知るとは、神を信頼し、神と共に歩む祝福の道のことです。困った時だけに、知らない神様に助けを求めるのではなく、私たちを愛し、共におられる方に助けを求めるのです、どれほど、その方が力強いことでしょう。また、安心なことです。また、その関係は永遠に続き、天の御国までも続きます。神と共に歩むことが永遠のいのちを持つことだからです。