「神との和解」ローマ人への手紙5章6節~10節
来週の日曜日はイースターです。イースターの前の一週間を受難週と呼び、イエス様が受けた苦しみについて考える一週間のことを言います。
1、イエス・キリストはなぜ、過越しの祭りの時に十字架に付けられて殺されたのか。
マタイの福音書26章3節~5節「そのころ、祭司長、民の長老たちは、カヤパという大祭司の家の庭に集まり、イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。しかし、彼らは『祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから。』と話していた。」とあります。彼らが話し合っていた「祭りの間」とは、ユダヤ教の三大祭りの一つ「過越しの祭り」のことです。過越しの祭りの期間、ユダヤ教の成人した男性は、どこに住んでいても、宮詣でをするように定められていました。それゆえ、祭りの間、大勢の人で町は溢れます。そのような時にイエス様を捕らえるなら、イエス様をメシヤと信じる群衆により暴動が起きると彼らは考えたのです。しかし、実際にイエス様が捕らえられ十字架に付けられて殺されたのは、この過越しの祭りの時でした。過越しの祭りの時にイエス・キリストを殺すことが神様の計画だったのです。
2、過越しの祭りの起原について。
ユダヤ教の三大祭り、過越しの祭りの起原は、イエス様が生まれる約1500年も前の出来事、旧約聖書出エジプト記12章に由来しています。当時、イスラエルの民はエジプトによる迫害に苦しんでいました。そのエジプトの苦しみから助け出したのがモーセです。神様は、イスラエルの民を助け出すためにモーセを選び、彼にエジプトの王と交渉してイスラエルの民をアブラハムに約束した地カナンに導くように命じました。しかし、エジプトの王はモーセの話に耳を傾けませんでした。そこでモーセはエジプトの民を10の災害で苦しめました。その10番目の災害が、エジプトに住む全ての初子(初めに生まれた男の子)の命を奪うという災害でした。しかし、イスラエルの民には神様から一つの約束が与えられました。それが、羊を殺してその血を門とかもいに塗りなさいと言う命令です。神様はその血を見てその家を通り過ぎると約束されたのです。(出エジプト記12章13節)また、神様はこの祭りを永遠に守るようにとイスラエルの民に命じられたのです。(出エジプト記12章14節)
3、神様の計画と人間の計画。
イエス様の時代、過越しの祭りは神様の戒めとして厳格に守られていました。また、群衆は、神様から送られるメシヤ(救い主)を待ち望んでいました。しかし、彼らが待ち望んだ救い主は、ローマの兵隊をユダヤの国から追い出し、ダビデの時代のような強力な国を作り上げるメシヤ(救い主)でした。しかし、神様がこの地上に送られた救い主は、人々に蔑まれ、苦しめられ十字架に付けられて殺されるメシヤ(救い主)でした。それゆえ、群衆はイエス様を救い主とは認めず、旧約聖書の預言通り、イエス様を十字架に付けて殺してしまったのです。
4、過越しの祭りとイエス様の十字架の死との関係。
先程、祭司長、民の長老たちはイエス様を捕らえて殺す時を、過越しの祭りの時は避けるように話し合っていました。それは、群衆の暴動を避けるためでした。しかし、実際にイエス様が十字架で殺されたのは、過越しの祭りの時でした。それは、神様がこの過越しの祭りの時に、救い主を十字架で殺すように計画されたからです。過越しの祭りは、羊を殺してその血を門とかもいに塗ることによって神様の裁きから救われるお話しです。実は、この羊こそイエス・キリストを表していたのです。エジプトを出た後、神様は荒野でモーセに罪が赦されるために動物の犠牲をささげるように命じられました。神様は罪を犯した人を赦すために動物の血(命)をその人の命の身代わりとして求められたのです。しかし、動物の血(命)は人間の命の代わりにはなりませんでした。人間の罪を赦すためには、罪を犯したことのない完全な命が必要とされたのです。
5、救い主イエス様の死と復活。
全ての人は罪を犯し、罪の無い完全な人は一人もいませんでした。罪の無い完全な存在は神様だけです。しかし、神様は霊的な存在で死ぬことができません。そこで、肉体を持った完全な人が必要とされました。その条件を満たすことができるのは、神の子であるイエス様が人として生まれることによって、はじめてその条件を満たすことができるのです。父なる神様は御使いを処女マリヤのもとに遣わし、彼女を通してイエス様を誕生させました。それが処女降誕です。これ以外に肉体を持った神の子が生まれる方法がなかったからです。また、イエス様は肉体をもって生まれましたが、その本質は神です。イエス様は、死に支配されないお方でした。それゆえ、死より三日目に甦って天に昇って行かれたのです。
6、イエス・キリストの十字架の死と神の愛。
ローマ人への手紙5章8節「キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」とあります。父なる神様が私たちを罪から救うために、神の子イエス様を人として誕生させてくださいました。それは、イエス様に私たちが受ける刑罰を負わせるということです。神様はイエス様が受ける辱めと苦しみを知った上でイエス様を人として地上に送られたのです。わが子が苦しむのを喜ぶ父親がどこにいるでしょうか。人々に崇められイスラエルの王となるならべつですが、十字架に付けられ苦しんで死ぬことを知った上で自分の子を地上に遣わす神がいるでしょうか。しかし、私たちを救うためには完全な身代わりが必要でした。それで、父なる神様は私たちを救うためにご自分の子が苦しんで死ぬことを計画されたのです。それは、神様が愛だからできることです。それほど、私たちの罪は大きく、わたしたちの罪を贖うためには、それほど大きな犠牲が必要だったのです。また、それほど大きな犠牲を神様が支払ってくださったからこそ、私たちは神様と和解することができたのです。