マラキ書2章1節~16節
神は預言者マラキを通して1章2節「わたしはあなたがたを愛している」という神の祝福のメッセージをイスラエルの民に伝えました。しかし、彼らの反応は2節「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか」という冷たい態度でした。この時、イスラエルの民は神殿を建て直し、国を再建しましたが、経済的な問題は解決されず、人々は一部の金持ちを除いて苦しんでいました。彼らは、神への期待が大きかったゆえに、神への失望も大きく、人々は神に対して背を向けて生活していたのです。
2章から「契約」という言葉が何度か登場します。2節「レビとの契約」5節「彼との契約」8節「レビとの契約を損なった」10節「先祖の契約」とあります。ここで言われている「契約」とは、旧約聖書の中で結ばれた神とイスラエルとの契約のことで、「主人としもべの契約」または「わざの契約」と呼ばれるものです。この契約の特徴は、主人との契約(約束)を守るならば祝福を受け、契約を破るならば、呪いが与えられるという点です。レビ人は神に仕え、イスラエルの民に契約を守るように教える役目が与えられていました。イスラエルの民が神との契約を守っているとき、5節~7節「わたしの、彼との契約は、いのちと平安であった。わたしはそれらを彼らに与えた。それは恐れであったので、彼らはわたしを恐れ、わたしの名の前に、おののいた。彼の口には真理のみおしえがあり、彼の唇には不正がなかった。平和と公正さのうちに、彼はわたしとともに歩み、多くの者を不義から立ち返らせた。祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口からみおしえを求める。彼が万軍の主の使いだからだ。」とあります。しかし、契約を守らないならば、8節9節「しかし、あなたがたは道から外れ、多くの者を教えによってつまずかせ、レビとの契約を損なった。――万軍の主は言われるーーわたしもまた、あなたがたを、すべての民に蔑まれ、軽んじられる者とする。あなたがたがわたしの道を守らず、えこひいきをしながら教えたからだ。」とあります。
13節で、神は彼らにこのように言われました。「主が、もうささげ物を顧みず、あなたがたの手から、それを喜んで受け取られないからだ。」それに対して彼らは言いました。14節~16節「『それはなぜなのか』とあなたがたは言う。それは主が、あなたがたの若いときの妻との証人であり、あなたがたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。神は人を一体に造られたのではないか。そこには、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、自分の霊に注意せよ。あなたの若い時の妻を裏切ってならない。『妻を憎んで離婚するなら、--イスラエルの神、主は言われるーー暴虐がその者の衣をおおう。--万軍の主は言われる。』あなたがたは自分の霊に注意せよ裏切ってはならない。」マラキの時代は、エズラやネヘミヤの時代に近い時代です。この時代、イスラエルの指導者たちやお金持ちが外国の女性を妻にしていたことが問題になりました。ネヘミヤは、国が北イスラエルと南ユダに分かれたのは、ソロモン王が外国の女性たちによって偶像礼拝が国に持ち込まれたからだと考えていました。マラキの時代にも、妻を離婚して外国の女性を妻にすることが多くあったようです。
結婚とは、人間が罪を犯す前に神が定められた聖なる契約です。創世記2章18節「また、神である主は言われた。『人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。』」22節~24節「神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。人は言った。『これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから。』それゆえ、男は父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」また、イエス・キリストは律法学者たちから離婚について質問を受けた時、先ほどの創世記の箇所を言われました。マタイの福音書19章5節6節「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」と言われました。ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」私たちは結婚式の場で誓約を交わします。それは、病気の時も健康な時も、富むときも貧しい時も堅く節操を守るという誓いです。その誓いとは誰に対してする誓いでしょうか。それは、互いに対する誓いであると共に、神への誓いなのです。
旧約聖書の契約は、主人としもべの契約であり、わざの契約でした。それゆえ、私たちに求められることは、その契約に忠実に従うということです。神の約束は、契約に従うならば祝福、従わないのであれば呪いが与えられるという契約です。しかし、新約聖書の契約は「恵みの契約」です。それは、私たちの行いによらず、神の一方的な愛による契約です。神が私たちに求めることは、神の愛に対して素直にそれを受け入れ、その愛に応えることです。何かをしたら与えられる条件付きの愛ではなく、無条件で与えられる愛です。それが、イエス・キリストの十字架の愛です。私たちが神より救いを受けたのは、正しい人間になったから、神の戒めを守ったからではありません。ローマ人への手紙5章6節~8節「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」
教会に通い始めた頃、旧約聖書の神は怖い神で、新約聖書の神は愛の神だと、神を二つに分けて考えていた時があります。後に、聖書を学ぶことによって、その考えは間違いであることを教えられました。確かに、旧約聖書では、人を殺したり罰したりする神の姿が見られますが、それは、人間の方が神から離れ、自分勝手に他の神々を自分の神としたときなどです。旧約聖書の中でも、ダビデのように罪を犯したとしても、悔い改めるなら神の赦しはありました。問題は神の契約を守れない人間の弱さにあったのです。イエス・キリストはそれゆえに、神の姿を捨てて、人となり十字架の上でご自身のいのちを犠牲にされました。今、神が私たちに求めていることは、完全な人になることではなく、自分の弱さを認め、神と共に歩むことです。そのために、私たちは聖書を読み、祈り、礼拝に参加し、神を褒めたたえるのです。