「神に罪を赦された喜び」詩篇51篇1節~4節
日本人が想像する神様は、罪を罰する怖い神様の姿です。子供が悪さをすると、親はすぐに子供に、罰が当たると子供を脅します。そこから、日本人は自然に神様は罪を罰する怖い神様と言うイメージが定着したのではないかと思います。しかし、聖書に描かれている神様の姿は、愛と忍耐と赦しの神様です。創世記の初めに、すでに、人間は神様の戒めを破り罪を犯してしまいました。本来なら、アダムとエバはすぐに死ななければなりませんでした。しかし、神様は二人を赦し、アダムには労働の苦しみ、エバには産みの苦しみを与えましたが、神様は、みじめな姿の二人を憐れまれ、二人に皮の衣を与え、エデンの園から追い出されたのでした。
新約聖書のマタイの福音書18章で、ペテロは「兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」とイエス様に尋ねました。イエス様はペテロに「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」と答えました。七度を七十倍するとは、490回という意味ではなく、何度でも、または、完全に赦しなさいという意味です。私たちは、七度でも赦せない者ですが、神様は、何度でも、また、完全に赦される神様です。聖書にはそのことを、様々な人々との関係を通して私たちに教えています。
旧約聖書に登場する、イスラエルの国の二番目の王ダビデは、一番、神様に愛された王様です。ダビデが神様に愛された理由は、彼の知恵や力の故ではありません。ダビデが神様に愛された理由は、彼の神への謙遜(素直さ)でした。ダビデは少年の時に、神様に選ばれ、サムエルによって油注がれました。しかし、依然としてサウル王の力は強く、ダビデはサウルの妬みのために命を狙われ、逃亡生活を強いられました。しかし、その後、サウル王はペリシテ人に戦争で敗れ、殺されてしまいました。そして、その後、神様の計画通りダビデが王に就任したのです。ダビデは優秀な王でしたが、バテシェバという女性と姦淫の罪を犯してしまいました。それだけではなく、彼女が身ごもったことを知ると、ダビデは彼女の夫を戦場の危険な場所に向かわせ、戦死させ、バテシェバを自分の妻にしてしまったのです。神様はそれを知って、預言者ナタンをダビデのもとに遣わせ、ダビデの罪を指摘させました。その時、ダビデは、神様の前に自分の罪を認めたのです。当時の他の国の王様であれば、ダビデが行ったことは日常のことでした。しかし、イスラエルの国においては、それは赦されない大きな罪だったのです。しかも、ダビデは自分の罪をすぐに認めました。王様の権威を使えば、預言者ナタンを殺すことも、牢獄に閉じ込めることもできました。しかし、ダビデは自分の犯した罪を多くの家臣の前で認めたのです。そして、バテシェバの最初の子は病気になって死んでしまいました。ダビデはどれほど心を痛めたことでしょう。しかし、神様はダビデの悔い改めた姿を見て、二人目の子をバテシェバに与えました。そして生まれたのがソロモンです。ダビデはどんなに喜んだことでしょう。ソロモンこそ、ダビデにとって神の赦しの証しとなったからです。そして、ダビデはバテシェバにソロモンを後継者とすることを約束したのです。
神様にその罪を赦されるとは、どんなに大きな喜びでしょう。イエス様の弟子のペテロも、イエス様が裁判に掛けられた時、イエス様を知らないと三度も、イエス様の弟子であることを否定するという大きな罪を犯してしまいました。しかし、イエス様が死より三日目に復活し、イエス様はペテロに「わたしを愛しますか」と三度、問いかけました。ペテロにとってそれは、自分がイエス様を三度、知らないと言った、罪の赦しと受け取ったのではないでしょうか。その後、ペテロは教会の頭となり、命をかけて、イエス様の復活を宣べ伝えるものとなったのです。
世界中にキリスト教を広めた、パウロも同じような体験をしています。初め、パウロはキリスト教を激しく迫害する者でした。なぜなら、弟子たちがイエスの復活を宣べ伝えていたからです。パウロにとって弟子たちの話は受け入れられないもので、何とか、間違った教えを罰しなければいけないと熱心にキリスト教徒を迫害したのです。ところが、パウロはダマスコと言う町に近づいた時、復活されたイエス様と出会い、弟子たちのことばが正しく、自分が間違っていることを知らされたのです。しかし、イエス様はパウロを罰することなく、異邦人の救い、世界中にキリスト教を広めるようにパウロに特別な使命を与えられたのです。本来ならば、パウロはキリスト教を迫害した者ですから死罪にあたる者です。しかし、神様はそんなパウロの罪を赦し、世界宣教のために彼を選ばれたのです。パウロは喜んで命をかけて世界中にキリスト教を広めたのです。
先週、私たちの罪は、イエス様の命によって、十字架の上で、すべて支払われたというお話をしました。と言うことは、私たちが犯した罪が多ければ、多いほど、イエス様が支払われた額が大きいということができます。千円の罪が赦されたのと、一千万円の罪が赦されたのとでは、赦された額が違います。多くの罪が赦された者の方が多く愛することは当然のことです。ここで問題となるのは、私たちの罪の自覚です。私が、教会に来初めのころは、自分の罪の重さがわかりませんでした。しかし、今は、あまりの罪の多さの故に、金額では示すことができないほどに大きいことを認めます。しかし、それと同時に、イエス様はそんな大きな負債をも背負って、十字架の上でご自分の命の代価で支払ってくださいました。皆さんの罪の自覚はどれほどでしょうか。イエス様が担えないほどの罪の人はいません。ある人は、自分のような罪人は救われるわけがないと言います。しかし、イエス様はすべての人の罪の代価として、ご自分の命を犠牲にしてくださったのです。それは、神様が愛と忍耐と赦しの神であることの証しです。それゆえ、イエス様の十字架の死は、どんな罪を犯した人でも救うことができるのです。イエス・キリストはそのために(すべての人のために)人として誕生し、十字架の上で死んでくださったのです。