「神のことばと人間のことば」マタイの福音書8章5節~13節
私たちは、人が発する言葉と言うものを、目に見える形で認識することはできません。しかし、人が発する言葉は、確かに私たちの心に剣のように刺さり、また、傷ついた心をいやす力があります。もし、人の言葉を形で表すなら、怒りの言葉は剣のような形となり、やさしい慰めのことばは、グローブのような、包み込む形をしているのではないでしょうか。
人の言葉にそのような、人を傷つける力や、いやす力があるのならば、神様のことばはどれほど大きな力を持っておられるでしょうか。今日は、神様の力と権威について学びます。
今日、取り上げる「百人隊長のしもべのいやし」の場面は、マタイの福音書とルカの福音書に登場する有名な場面です。一人の百人隊長がみもとに来て、懇願して言いました。6節「主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」この百人隊長は、イエス様がいやしの力があり、多くの人々の病をいやしていることを知って、わざわざ、イエス様を訪ねてきたのです。このお話の結論として、イエス様はこの異邦人(ユダヤ人ではない)百人隊長の信仰をほめています。この百人隊長の信仰の、どのような点をイエス様がほめ、なぜ、その信仰がほめられるに値するのかが、このお話の大切なポイントとなっています。
- 百人隊長について。
この百人隊長は、ローマ政府から、ユダヤの国の治安を治めるために遣わされた軍人か、または、ヘロデ王が自分の部隊をまとめるために雇ったローマの軍人であると見られています。当時の百人隊長は知識人であり、お金持ちで、大きな権限を持っていました。ルカの福音書では、この百人隊長が、ユダヤ人を愛し、会堂を建ててくれた人であると説明しています。この百人隊長は、ユダヤ人ではありませんが、ユダヤの歴史や文化を愛し、ユダヤ教についても理解があったものと思われます。
- 百人隊長の信仰について。
この百人隊長はイエス様に自分のしもべの病のいやしをを求めました。イエス様は彼 の願を聞いて、7節「行って、直してあげよう。」と答えられました。しかし、この百人隊長はイエス様の訪問を断ったのです。なぜ、彼がイエス様の訪問を断ったのか、その理由は、8節「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。」と、自分はユダヤ人ではなく、異邦人であるから、イエス様に自分の家に来ていただく資格は、私にはないと自分を低くし、謙遜な態度を示したのです。また、彼は、ユダヤ人が律法によって、ユダヤ人以外の民族、異邦人と親しく交わってはいけないことを知っていたので、イエス様の訪問をあえて、お断りしたのです。
- イエス様が百人隊長の信仰をほめた理由。
イエス様の訪問をお断りした百人隊長が、イエス様に求めたものは、イエス様のことばでした。8節「ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。」なぜ、彼がイエス様のことばを求めたのか、その理由は、9節「私も権威の下にある者です。自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『いけ』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えばそのとおりにいたします。」と権威のある言葉には力が伴うことを知っていたからです。この百人隊長は、イエス様が神様から遣わされた方であることを信じ、イエス様に神の権威があることを信じていたので、イエス様の言葉だけで、自分のしめべの病はいやされると信じたのです。ユダヤ人の中でもイエス様の権威を認めた人はわずかでした。その中にあって、ユダヤ人ではない百人隊長がイエス様の権威と力を認めた、彼の信仰をイエス様はほめたのです。
私は昨年一年間、カウンセリングの学びを受けました。多くのことを学びましたが、その中で、今、一番、用いられている方法が、認知行動療法と言われるものです。その考え方は、人の行動と言うものは、その人の認知(理解)をもとに行われるというものです。問題行動を起こす人は、その人の考え方、物の認識に歪みがあるためであり、その歪んだ認識の歪みを正すことによってその人の問題行動を修正するという考え方です。
そして、その認識の歪みの原因となっているのが、自動思考(スキーマ)と言われるものです。自動思考とは、その人のくせのようなもので、そのような状況、または、相手の反応にたいして、同じような判断、同じような感情を起こすものです。例えば、先ほどの認知の歪みの例で、「恣意的推論」で、「あの人は私に挨拶をしなかった。私のことを嫌っているにちがいない。」という極端な判断をしてしまうということです。たまたま相手が気づかなかったか、相手が考え事をしていて気づかなかったこともあるでしょう。しかし、認知の歪みのあるひとは、いつでも、あの人は私を嫌っているに違いないと判断してしまうわけです。認知の歪みの原因となっている、自動思考(スキーマ)は、性格や成育歴(育てられた環境)によって自然に身に着けてしまうものです。例えば、私は父に子どもの頃から、「男は人前で涙を見せるな」とよく怒られたものです。それゆえ、私は人前で泣いてはいけないものだと自然に身に着けてしまいました。それゆえ、映画の悲しい場面でも、涙をこらえて、泣かないように努力しました。クリスチャンになって、そうではないことがわかり、自然に悲しい時には涙を流すようになりました。本当に楽になりました。人が涙を見せるのは恥ずかしいことではなく、自然な感情の表れであることがわかったからです。
また、私は子どもの頃、人前で、自分の意見を発表したり、人前で目立つようなことはきらいでした。それは、失敗したら人はどう思うか、自分の意見が間違っていたら笑われるのではないかと、人を恐れたからです。これもクリスチャンになって変わりました。人の意見は百人いれば百通りあり、それをいちいち気にしてもしかたがない、神様だけにわかってもらえればそれでいいと考えるようになって、人の顔色を恐れたり、人の言葉を気にすることがなくなりました。
旧約聖書で、モーセが亡くなり、後継者としてヨシュアが指名された時、彼は大変恐れたと思います。あのモーセさえ、苦労して荒野を40年歩いてきたのです。モーセより劣る自分がどうして、このイスラエルの民をカナンの地に導くことができるか。そんなヨシュアに神様はこのように語られました。ヨシュア記1章9節「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主があなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」神が、モーセといたように、共にいてくださる。どれほど、ヨシュアの気持ちを強める言葉でしょうか。人の言葉も人の心を支配します。それでは、なおさら、神様のことばは私たちの心を支配し強めてくださるのです。イザヤ書41章10節「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。」他にもたくさん、聖書の中に、私たちの心を強める神様のことばがあります。私たちは人の言葉と神の言葉どちらに耳を傾けるべきでしょうか。