神のことばに従う祝福

ルカの福音書5章1節~11節
今日は、ペテロがどのようにしてイエスの弟子になったのかを考えます。マタイの福音書4章18節から22節。マルコの福音書1章16節から20節を見ると、イエスがガリラヤ湖で漁をしているペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と声をかけ、彼らが網を捨ててイエスに従ったと記されています。ルカはその場面をもう少し詳しく記しています。さらに、使徒ヨハネは、ガリラヤ湖以前にイエスとペテロが出会った場面をヨハネの福音書1章35節から42節で記しています。要約すると、アンデレともう一人の弟子(使徒ヨハネと考えられる)は、はじめバプテスマのヨハネの弟子でした。ところが、バプテスマのヨハネがイエスを見て「見よ、神の子羊」と言いました。それを聞いた二人の弟子は、イエスについて行きました。二人はそこでイエスと交わり、イエスが旧約聖書で預言されたメシヤ(救い主)と信じました。ヨハネの福音書1章41節「彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、『私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った』と言った。」とあります。アンデレは喜んで兄弟シモン(ペテロ)にメシアであるイエスと出会ったことを報告しました。そして、42節「彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンを見つめて言われた。『あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ・岩)と呼ばれます。』」この後、使徒ヨハネはピリポとナタナエルが弟子に加えられたことを記しています。
ルカの福音書5章を見ると1節2節「さて、群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来たとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立って、岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になった。漁師たちは舟から降りて網を洗っていた。」この漁師たちとは、ペテロやアンデレ、ヨハネ、ヤコブも含まれた漁師たちと考えられます。この時、イエスとペテロはすでに面識があったものと考えられます。しかし、この場面を考えるならば、ペテロはイエスと出会い、「ペテロ・岩」という名をいただいたものの、その時には、すぐにイエスの弟子としてイエスに従ったのではなく、依然として、ガリラヤ湖の漁師として働いていたことが分かります。この場面でも、イエスがガリラヤ湖に来たにも関わらず、ペテロは漁に出て魚が捕れなかったために、網を洗っていたのです。そんなペテロにイエスは声を掛けました。3節「イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた。」とあります。ペテロはどんな気持ちでイエスのお話を聞いたのでしょうか。4節「話が終わるとシモンに言われた。『深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。』」イエスはなぜ、ペテロにそんなことを言ったのでしょうか。イエスはペテロの信仰を試したのかもしれません。5節「すると、シモンが答えた。『先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。』」ここでイエスがペテロに言ったことばは、簡単なようで、非常に難しいことばです。なぜなら、ペテロは夜通し働いても魚が捕れなかったのです。しかも、今の時間、魚がいる時間ではありません。また、イエスは漁師でもありません。だれがイエスのことばに従えるでしょうか。普通は、そんなことやっても無駄ですとお断りする状況です。ところが、ペテロはイエスのことばに従って網を下ろしたのです。6節「そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。」とあります。7節「そこで別の舟にいた仲間の者たちに、助けに来てくれるよう合図した。彼らがやって来て、魚を二艘のいっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった。」8節「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。『主よ。私から離れてください。私は罪深い人間ですから。』」9節「彼らも、一緒にいた者たちもみな、自分たちが捕った魚の事で驚いたのであった。」10節「シモンの仲間の、ゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンに言われた。『恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。』11節「彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。」
とあります。マタイとマルコはこの場面を省略して、ペテロやアンデレ、ヨハネやヤコブがイエスに呼ばれて、すぐに網を捨てってイエスに従ったように記したのです。
私たちはこの出来事から何を学ぶでしょうか。ペテロにとって、イエスのことばに従うことは、無駄な事でした。魚など捕れるはずがないからです。時として、私たちも神のことばに従うことに困難を覚えることがあります。それは、私たちには限界があり、自分の力で神の働きを制限してしまうことがあるからです。しかし、ペテロがイエスのことばに従った時、何が起きたでしょうか。いるはずのない魚が大量に捕れたのです。ペテロはびっくりしたことでしょう。それと同時に、イエスの権威と力の前にひれ伏したのです。ペテロがイエスに言った8節「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」ということばは、ペテロがイエスを人間以上の存在と認めたからではないでしょうか。ペテロはこの経験を通して、イエスに従うことを決心したのです。もし、ペテロがイエスのことばに従わなかったら、彼は漁師をやめてイエスの弟子になることはなかったかもしれません。イエスがペテロに語ったことばは、ペテロにとってそれほど重要なことばだったのです。
私たちも、人生の半ばでそのような選択を迫られる時があります。そのとき、私たちはどのような判断を下すでしょうか。まず、現実の状況を考えるでしょう。次に自分の力や立場を考えるでしょう。それから、従うか、パスするかを考えるのではないでしょうか。そこには、信仰も神の力もありません。私たちが信じる神は遠くから眺めている神ではありません。私たちを愛し助けて下さる神です。確かに、現実の状況を理解することは大切な事です。その上で、神の御心かどうかを祈る必要があります。聖書を黙想することも必要でしょう。その上で、神の御心ならば、必ず、神の助けがあり、成し遂げられるという信仰が与えられるのです。自分の知恵や力で解決しようとした時、さらに問題が複雑になり問題が大きくなる時があります。しかし、神に従ったとき、私たちはペテロのように大きな神の祝福を受けることができるのです。当然、不安はあります。それゆえ、日々祈りつつ神との交わりが必要となるのです。