「神の国」ルカの福音書17章20節~37節
聖書の中で「神の国」という時、二つの意味があります。一つは、「神の支配」もう一つは、「天の御国」のことです。マタイの福音書6章33節でイエス様が言われた「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」と言われたのは、神の支配のもとに自分を置きなさい。そうすれば、必要なものは神様が下さるという意味でした。それゆえ、イエス様はルカの福音書17章20節21節で「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、そこにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」と言われたのです。
22節から、「人の子」ということばが何度か登場します。ユダヤ人たちは、旧約聖書を通して、メシヤ(救い主)を待ち望んでいました。しかし、彼らが待ち望んだ救い主は、ローマ政府の支配からユダヤ人を救い出し、ユダヤの国を再建するダビデ王のような勇敢な王を待ち望んでいたのです。しかし、イエス様はそのような目的のために、人としてお生まれになったわけではありません。それゆえ、イエス様はあえてご自分のことを、メシヤということばを使わないで、「人の子」ということばを使われたのです。「人の子」ということばは、旧約聖書のダニエル書に登場することばです。終わりの日に雲に乗った人の子ような方が現れ、すべての権威が神より与えられ永遠の国を打ち立てる。とあります。それゆえ、ルカの福音書17章22節以降で、イエス様は終わりの日について説明されたのです。
22節「人々が『こちらだ。』とか『あちらだ。』とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。」とあります。終わりの日には、「にせ預言者」「にせキリスト」が、あちらこちらに現れるとあります。そのような者に惑わされないように気を付けなければなりません。また、終わりの日は、ノアの日のようにおこると言われました。ノアの洪水の前、人々の悪が増大し、神様はこの地上を洪水で滅ぼそうとされました。しかし、ノアだけは神様の御心にかない、神様はノアに大きな箱舟を造るように命令されたのです。しかし、箱舟は、ノアの家族だけではなく、ノアの家族を通して他の人々も救うことができる大きさでした。人々は、何の目的でノアが箱舟を作っているのかを知っていました、しかし、人々はノアの話に耳を傾けることなく、毎日、食べたり飲んだりして生活していたのです。そして、箱舟が完成されると、洪水がおこり、ノアの家族以外はすべて滅ぼされてしまったのです。また、29節に登場するロトは、アブラハムの甥のことです。ロトは、叔父さんのアブラハムと共にカランからカナンへと旅をしました。しかし、ふたりの持ち物が多くなり、アブラハムは、甥のロトと分かれる決心をしました。その時、アブラハムは、ロトに自分が住みたい町を選ばせたのです。その時、ロトが選んだ町がソドムでした。当時のソドムは豊かで魅力的な町でした。ロトは目に見える豊かさを求めて、ソドムの町に近づいたのです。しかし、ソドムの街は、よこしまな者が多く、後に、神の裁きによって滅ぼされてしまいました。しかし、ロトの家族はアブラハムのゆえに特別に神様から助けの手が差し伸べられたのです。また、御使いはロトの家族に後ろを振り向かないで逃げなさいと言われました。しかし、ロトの妻は、後ろを振り返ったために、塩の柱になってしまったとあります。その時、突然、天から硫黄の火がソドムの町に下り、一瞬にしてその町は滅ぼされてしまったのです。21節にあることばは、財産や金目の物を取りに戻らないで、すぐに逃げなさいと教えられたことばです。マタイの福音書24章16節~18節「そのときは、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。」と言われたのと同じです。
34節35節の言葉は、イエス様が再び来られた時、まず、キリストにある死者がよみがえり、次に、生き残っているクリスチャンが天に引き上げられ空中でイエス様と会うと約束についてのことばです。それゆえ、終わりの日に、ある者は天に引き上げられ、ある者は地上に残されるとイエス様は言われたのです。また、マタイの福音書24章15節に「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者が聖なる所に立つのを見たなら』すぐに逃げなさい」とも教えられたのです。
世の終わりを避けることはできません。しかし、神様はノアの家族を助けられたように、私たちのために、イエス様によって救いの道を備えて下さいました。しかし、その救いの道は誰でも救われるという事ではありません。ノアの時代箱舟に入ったのはノアの家族と動物だけでした。他の人々も救われる道があったのに、多くの人々は、ノアのことばに耳を傾けることなく、食べたり、飲んだりしていたのです。神様が私たちを天国から締め出すわけではありません。私たち一人一人は、自分の罪のゆえに天国の門が閉ざされたのです。その天国から遠ざけられた私たちをもう一度、天国に入れてくださるために、イエス様は神の子であるのに、人の罪の身代わりとして十字架で死んでくださったのです。そこに、聖書が私たちに教える神様の愛が示されたのです。今、私たちは、イエス様による救いの道が開かれています。今、私たちはその道を信じるかどうかが問われるのです。
マタイの福音書25章1節~13節で、賢い女性たちは予備の油を用意しておきました。それは、花婿が遅れて来てもいいように準備されたものです。愚かな女性たちはそのような考えもなく準備もしませんでした。その結果、花婿が遅れたため、予備の油を準備しなかった女性たちは急いで、油を買いに行かねければなりませんでした。その間に、宴会は始められ、油を買いに行った女性たちは扉が閉められ、宴会に参加することができなかったのです。私たちは、イエス様の再臨の準備ができているでしょうか。世の終わりは突然にあらわれると教えられています。私たちは、イエス様がいつ来てもいいように目を覚まして、聖書の言葉に耳を傾けたいと思います。