神の姿を捨てて人となられたイエス・キリスト

へブル人への手紙4章14節~16節

へブル人への手紙の著者は不明です。ただ、内容にユダヤ教の祭司について書かれてある事、また、ユダヤ教とキリスト教を比較して論じている箇所があることから、著者はユダヤ教の祭司の働きについて詳しい人物ではないかと考えられています。

 へブル人への手紙4章14節「さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」

とあります。本来、大祭司の職はモーセの兄アロンの家系の者が受け継ぐ大切な職責です。しかし、イエス・キリストはアロンの家系の生まれではありません。イエス・キリストはダビデの子孫であり、また、ダビデはユダ部族の出身です。出エジプト記で神はモーセに彼の兄アロンとその子たちを聖別し祭司として任命することを命じています。その後、アロンの子孫から大祭司が選ばれました。しかし、それ以前に創世記14章で、サレムの王メルキゼデクをいと高き神の祭司であったと記しています。それゆえ、へブル人への手紙の著者は、イエスがアロンの家系ではなくても、直接、神によって選ばれた大祭司であると論じているのです。

祭司は、神とイスラエルの民の間に立ち、イスラエルの民の罪を贖う働きをしていました。特に大祭司は年に一度、動物の血を携えて至聖所に入り、イスラエルの罪を贖う大切な責任を負っていました。しかし、それは大祭司が人間である(したがって罪人である)ゆえに人々の罪を完全に贖うことは出来ませんでした。しかし、神に任命された大祭司キリストは、動物の血ではなく、罪の無いご自身の血を流すことによって、私たちの罪の贖いを完全に成し遂げてくださいました。しかも、大祭司は毎年、民の贖いを成さなければなりませんでしたが、イエス・キリストは十字架の上でご自分のいのちを犠牲にすることによって、一度で私たちの贖いを成し遂げてくださったのです。そこに、アロンの家系による大祭司と神の子イエスの大祭司との大きな違いがあります。

 15節「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」とあります。イエス・キリストは神の栄光の姿を捨てて、私たちと同じ肉体を持って人として生まれてくださいました。そこにはどれほど大きな恵みがあるでしょうか。神の子イエスが私たちと同じ、人として生まれたということは、神の特権を捨てられたということです。新約聖書を見るなら、イエスが空腹を覚えられたとか、イエスは旅の疲れで井戸の傍らで座っておられたという箇所があります。神の子であれば、空腹を覚えることも、疲れることもありません。イエスはそれらの特権を捨てて、私たちと同じになられたので、空腹や疲れを覚えたのです。それゆえ、へブル人への手紙の著者は、イエス・キリストが神の子でありながら、わたしたちの弱さに同情できない方ではありませんと宣言しているのです。

また、「私たちと同じように試みにあわれたのです。」とあります。マタイの福音書4章で、荒野でイエスが40日の断食の後、試みる者(サタン)が近づき、イエスを誘惑しました。イエスはこの時に、奇蹟的な力でサタンの誘惑を退けたのではなく、神のことば(旧約聖書のことば)を通して、サタンの誘惑を退けられました。それは、私たちがイエスに習いサタンの誘惑を退けるためでした。また、イエスが人として生まれたということは、イエスが十字架に釘付けされた時、どれほどの痛みを感じたことでしょう。イエスは自らその痛みに耐えてくださいました。また、イエスが十字架に付けられた時のことについて、マタイの福音書27章46節「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」とあります。以前、これには二つの意味があるとお話ししたことがあります。一つは、イエスは詩編22篇のことばを叫ぼうとして息絶えたという説。もう一つは、イエスは罪の無い神の子でしたが、罪人として、また、罪人の代表として十字架の上で殺されなければならなかったため、神はイエスから離れ、最後にイエスは孤独な一人の人間として死を迎えられた。それが、先ほどの「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びになったという説。どちらが正しいかはわかりません。ただ、神の子が罪人と同じように死を迎えたことはどれほど大きな意味があるでしょうか。もう一度、へブル人の手紙4章15節の御ことばを見てみましょう。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」この御ことばの中に、イエス・キリストがどれほど多くの苦しみを耐えられたかが記されています。また、それは私たちの罪を贖うために、神の子キリストが支払われた代価の大きさを表しています。また、そこに私たちに対する、キリストの愛が記されているのです。

16節は、ここまでの話の結論に当たる箇所です。「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」とあります。古い聖書の文語訳聖書や口語訳聖書では、「大胆に」ということばが、「はばかることなく」ということばに訳されています。「はばかることなく」とは「遠慮なく」という意味です。ある先生は「はば」とは相手との距離の事で、「はばかることなく」とは距離を取らないで、近づいてという意味で、遠慮なく神に近づきなさいと言う意味だと説明しています。イエス・キリストはどうして、神の姿を捨てて人として生まれてくださったのでしょうか。それは、神(イエス・キリスト)がそれほど私たちを愛しておられるからです。それゆえ、へブル人の手紙の著者は(口語訳)「はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」と私たちに勧めているのです。