マタイの福音書8章23節~27節
マタイの福音書8章14節~16節「それからイエスはペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒された。」
とあります。ルカの福音書4章38節~40節「イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。シモンの姑がひどい熱で苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスにお願いした。イエスがその枕元に立って熱をりつけられると、熱がひいた。彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。日が沈むと、様々な病で弱っている者をかかえている人たちがみな、病人たちをみもとに連れて来た。イエスは一人ひとりに手を置いて癒された。」とあります。そのような出来事があって、以前お話しした、ペテロがイエスのことばに従って深みに漕ぎ出し大量の魚を捕るという奇蹟を経験し、イエスの弟子になった経緯が記されています。マタイの福音書8章18節「さて、イエスは群衆が自分の周りにいるのを見て、弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。」とあります。23節24節「それからイエスは舟に乗られると、弟子たちも従った。すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。」とあります。イエスは連日、神のことを人々に話し、多くの人々の病を癒されました。イエスはこの時、肉体の疲れを覚え、知らず知らずのうち、寝入ってしまったのではないでしょうか。この場面を通して、イエスが神の姿を捨てて、人と同じになられたことが証明されています。神の姿であれば、疲れることも眠ることもなかったでしょう。イエスはまさに、神の栄光の姿を捨てて、私たちと同じになるためにマリアよりお生まれになられたのです。ガリラヤ湖は山々に囲まれた、すりばち状の湖で山から振り下ろされる風によって、突然、暴風雨となり、舟が危険になることが度々起こりました。弟子たちの中には、ペテロのようにガリラヤ湖の漁師たちが含まれています。彼らはこのガリラヤ湖の暴風雨の恐ろしさを熟知していました。それで取り乱して寝ているイエスを起して助けを求めたのです。25節「弟子たちは近寄ってイエスを起して、『主よ。助けてください。私たちは死んでしまいます』と言った。」とあります。26節「イエスは言われた。『どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。』それから起き上がり、風と湖をりつけられた。するとすっかり凪になった。」とあります。マルコの福音書4章39節「イエスは起き上がって風をりつけ、湖に『黙れ、静まれ』と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。」とあります。弟子たちは驚いたことでしょう。風や波を静めるなど人間の業ではありません。ここで考えたいことは、舟が沈みそうになり弟子たちが寝ているイエスを起したことは、信仰の薄い(小さい)ことなのでしょうか。マルコの福音書4章40節「イエスは彼らに言われた。『どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。』」とまで言われています。ルカの福音書8章25節「イエスは彼らに対して『あなたがたの信仰はどこにあるのですか。』」と言われています。これらのことばから、イエスが弟子たちを咎めたのは、寝ているイエスをおこしたことではなく、風や波を恐れ、取り乱した弟子たちの態度を咎めたもの考えられます。弟子たちがイエス・キリストを神と同等の権威をお持ちの方であると信じているなら、いくら強い風が吹いても、波が荒れても、取り乱したりしなかったでしょう。彼らにとってイエス・キリストは律法の教師であり、神から遣わされた預言者でした。まだ、この時点では、弟子たちはイエスが神と同等の権威を持っておられることを信じていませんでした。それゆえ、弟子たちは風と高波を見て恐れたのです。マタイの福音書8章27節「人々は驚いて言った。『風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。』」マルコの福音書4章41節「彼らは非常に恐れて、互いに言った。『風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。』」信仰とはイエス・キリストが神の子であり、神と同等の権威を持っていることを信じることです。イエスが人間であり、努力して神に近い存在になったとしても、人間であることには変わりありません。私たちがイエスを神の子と信じるのは、神が神の栄光の姿を捨てて、人として生まれたということです。神が人の姿と同じ肉体を持ったとしても、神の本質は変わることはありません。それゆえ、イエスは私たちと同じ肉体は持たれましたが、神の権威は依然としてイエス・キリスト本質の中に存在しています。人間は自然の法則の中に生きています。それゆえ、自然の法則を変えることはできません。しかし、神は創造主であり、自然の法則に支配されないお方です。ここでイエスはご自身が神の権威を持った人の子であること。ご自分の意思によって自然を変える権威と力があることを弟子たちに示されたのです。
私たちはどうでしょうか。私たちは頭ではイエスが神の子であり、神と同等の力と権威をお持ちであることを理解しています。しかし、実際の生活では、神よりも目に見える力や権威を恐れていないでしょうか。苦しみや試練の時に神に助けを求めることは悪いことではありません。しかし、弟子たちの様に風や波を恐れ、目に見える権威や力を恐れていないでしょうか。神は全能であると信じていても、いくら神でも出来ないのではないかと、不信仰な思いに心が支配されることはないでしょうか。まさに、弟子たちはそうでした。それゆえ、イエスは弟子たちに「あなた方の信仰はどこにあるのですか」と言われたのです。神を信じるとは、神の存在を信じることではありません。神の権威と力を信じることです。私たちにとって神とはどのような存在でしょうか。自然を支配し、全てを支配しておられるお方でしょうか。また、その神が遠くから私たちを眺めておられる神ではなく、私たちの髪の毛の数さえも知っておられるほど、私たちを愛し、共にいてくださるおかたです。ペテロの手紙第一5章6節7節「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」神の力強い御手にへりくだるとは、神の権威と力を信じるということです。思い煩いをいっさい神にゆだねるとは、全てを神にお任せすることです。神が私たちのことを心配してくださる。これほど力強い味方はありません。不安な時は、あわてず、聖書を読み神に祈りましょう。へブル人への手紙4章15節16節「私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」