神の性質・三位一体(1)父なる神

「神の性質・三位一体(1)父なる神」ルカの福音書15章11節~24節

私たちが洗礼を受ける時に必ず教えられるのが、神様の性質「三位一体」です。なぜ、それほど重要なのか、それは、「三位一体」という神様の性質を信じなければ、キリスト教がキリスト教でなくなり、異端の教えになってしまうからです。「三位一体」という言葉は聖書の中には出てきません。「三位一体」という考え方は2世紀ごろから教会で議論され、4世紀に入って教会の教理として確立されたました。神様の性質として、神は、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神の三つの性質が一つの神の中に調和して存在しているという考え方です。旧約聖書では唯一の神が信じられています。また、新約聖書においては、イエス・キリストも聖霊も同じ神として紹介されています。そうなると旧約聖書と新約聖書の間で矛盾が生じてしまいます。イエス様は旧約聖書の教えを否定されませんでした。旧約聖書の教え、神が唯一であるなら、イエス様と聖霊は神ではない存在となってしまいます。エホバの証人の教えは、唯一の神しか信じませんから、イエス様を神ではない存在とし、聖霊を神の力と説明しています。イエス様が神でないならば、そこには十字架による救いは無くなってしまいます。その矛盾を解決するために考え出された性質が「三位一体」という性質です。しかし、これは人間が勝手に考え出した答えではありません。新約聖書を詳しく研究するならば、神様は、複数の個所で、ご自身が「三位一体」なる神であることを証ししています。マタイの福音書28章19節で、イエス様が天に上られる前に、弟子たちにこのように命じています。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」とあります。イエス様はこの個所において、父と子と聖霊が同じ性質、同じ位であることを証ししています。

今日は、父の日ですから、父なる神について考えます。

1.父の権威について。

昔の父には絶対的な権威がありました。父が全てを決め、家族はそれに逆らうことができませんでした。家族旅行やテレビのチャンネルさえ、父が決め、こどもである私が見たい番組があっても絶対に譲ってくれませんでした。神様の権威も絶対で、人間である私たちが逆らうことの許されない権威が神様にはあります。

2.父の責任について。

父は家族の大黒柱で、父は、経済的にも精神的にも家族を養う責任があります。それと同じように、父なる神も、私たちを養い守る責任があります。イエス様はマタイの福音書6章26節から34節で、「空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」と神様が私たちを責任をもって養っていてくださることを教えています。

3.父の愛について。

父の愛は、母の愛とは違い、強さと包容力を感じさせます。ルカの福音書15章11節から有名な放蕩息子のたとえ話をイエス様は群衆に話されました。ここに二人の息子が登場します。弟息子は将来遺産として自分がもらうはずのお金を、父が生きている時に、父に求めました。それは、家を離れ、一人で生活するためでした。父は弟息子がまだ一人では生活できないであろうことを知りつつも、二人の息子にそれぞれ財産を分けてやりました。弟息子は財産を受け取ると遠くの町に旅立ちました。しかし、財産を使い果たし、食べるのにも困る生活となってしまいました。そこで、弟息子は父と共に生活していた時のことを思い出し、父の家に帰ることにしました。彼は自分の罪を認め、息子としてではなく使用人としてでもいいから父の家で共に暮らすことを決心して家路に向かいました。

ところが、父は、息子がまだ、遠くにいるのに、弟息子を見つけると、彼に走り寄り、彼を抱きしめ、口づけしたとあります。ここに、父の愛の姿を見ます。父は弟息子が失敗していつ戻って来るかと心配して毎日、外に立って弟息子が帰って来るのを待ち望んでいたのです。また、父は、息子が失敗し、ボロボロの姿で帰ってきたにもかかわらず、息子を一言も責めていません。それどころか、ぶじに帰って来た息子を喜んで迎え、彼のために盛大な歓迎会を開いたのです。

このイエス様のたとえ話は、神様がいかに深い愛を持たれた父なる神であるかをわかりやすく、人々に伝えるためにお話しくださった個所です。神様は私たちが失敗しても、悔い改めて神様のもとに帰るなら、喜んで迎えてくださる神様であることを私たちに伝えておられるのです。しかし、ある方は「父なる神」ということばに違和感を覚えると言われました。それは、その方が子どもの頃から父親から虐待を受けてこられた方で、父に対してどうしてもその時のイメージがかさなって、父なる神という言葉を受け入れることができないと言いました。確かに、色々な父親の姿があります。しかし、神が父であるということは人間の父と同じではありません。神が父であるということは、絶対的な権威者であること、父として責任を持って私たちを守り養ってくださること、また、私たちが失敗して、神のもとに帰った時には、喜んで迎えてくださるそのような姿を表したことばです。私たちが求めるならそんな素晴らしい神が父として私たちを迎えて下さいます。イエス様が私たちに伝えようとされたのはそのような父なる神の姿なのです。