神の愛と恵みによって

ヨハネの福音書3章16節 創立40周年記念礼拝

皆様と共に、創立40周年記念礼拝を守ることができて感謝します。初めに小手指の地で宣教の働きを始められたのはロング宣教師ご夫妻でした。その働きは3年間続けられました。ロング宣教師がこの地を選んだのは「小手指」という地名によると聞きました。ロング宣教師は、この地に神の手が指し示している理解して、小手指で宣教の働きを始められたのです。

ロング宣教師ご夫妻の後を継いだのがクラップ宣教師ご夫妻でした。お二人はこの地で4年間宣教の働きをされました。アライアンスの宣教師は、宣教地で4年働き、1年宣教の報告のためにアメリカに帰る決まりとなっています。クラップ宣教師ご夫妻もアメリカに帰る時が近づき、次は日本人の牧師に教会を託したいと願い祈ってきました。その年の神学校の卒業生は私しかいませんでした。私は神学校を卒業するとき30歳で独身でした。教会を牧会する自信もなく、母教会の渋谷福音教会で副牧師として働くことを希望していました。しかし、神はクラップ宣教師の祈りに答え、私をこの教会に導いてくださいました。その1年後、私は結婚し37年間この地で働くことができました。それは、私の力ではなく、神の力と皆さんの祈りによってです。

また、ロング先生ご夫妻、クラップ先生ご夫妻のもう一つの祈りの課題は、この地に教会堂を建てることでした。それまでマンションの部屋を借りて礼拝してきました。当時は、宣教師が教会堂を建てることはアメリカの本部から禁止されていました。そこで、この祈りの課題は私に託されたのです。私は、小手指の地に赴任して、すぐにお二人の宣教師から会堂建築のビジョンを受け継ぎました。その時は、礼拝人数も少なく、経済的にも十分ではありませんでした。しかし、アライアンスミッションと日本アライアンス教団、また、皆様のご協力によって会堂を建て上げることができました。今は、この会堂で共に礼拝を守ることができて感謝です。この40年の日時は、神の恵みの時でした。しかし、それは、苦しみや悲しみ、戦いがなかったわけではありません。40年というとイスラエルが40年の間荒野をさまよい歩いた出来事を思い出します。それは、彼らの不信仰の結果でしたが、神はこの荒野での40年の間、彼らを見捨てることなく、マナという食べ物を与え、荒れ地から水を出して助けました。実際、荒野で男性だけで60万人という人々が40年も生きることができるでしょうか。そこには神がともにおられたからだとしか考えることは出来ません。私たちは神の祝福とは、苦しみがなく、悲しみもなく、思い通りの人生が歩めることだと考えますが、実はそうではありません。神を信じていても、病気になり、悲しみや苦しみ、死さえもあります。私たちの幸いは、苦しみや悲しみの時に神が共におられるということです。この40年の間、神はこの教会と共におられ、守り導いてくださいました。これから先も同じことです。日本アライアンス教団の教会の中には、創立100年以上の教会が幾つかあります。私たちの教会もこれから先、100年200年と神と共に歩み続けたいと思います。

教会の第一の働きは福音を人々に伝えることです。「福音」とは、「良き訪れ」という意味です。旧約聖書は、神の戒めを守る律法の時代でした。しかし、人々はこの律法(神の戒め)を守ることができずに苦しんでいました。神は、私たちの苦しみを見て、救いの道を備えてくださいました。それがイエス・キリストの誕生と十字架の死と復活です。

パウロはコリントの教会にこのように伝えています。コリント人への第一の手紙1章18節「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」イエス・キリストの死と復活は、神を信じない者にとっては、愚かなことです。しかし、私たちクリスチャンにとっては、神の力なのです。21節「神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。」天地を創造された神を私たちの知恵で知ることは出来ません。もし、できたとしたら、その人は自分を誇ることになります。「宣教のことばの愚かさを通して」とあります。聖書のことばは神を信じない者にとって愚かなことばです。しかし、神を信じる者にとっては、聖書は神のことばであり、神の契約の書です。22節~25節「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」とあります。神を信じない者にとって、キリストの処女降誕と死からの復活は愚かなことです。私も教会に来る前は信じられませんでした。しかし、聖書を読み、神を求めることによって信じる者となりました。それは、私の力ではなく、まさに神の力なのです。

アライアンス教団は福音の中でも四つの事を強調するグループです。「救い主キリスト」「潔(きよ)め主キリスト」「いやし主キリスト」「再臨の王」です。この順番が大切です。私たちが一番に伝えることは、救い主キリストです。次に潔め主キリスト。潔め主キリストとは、自分の力で正しい人間になるのではなく、キリストと共にあることによって正しい歩みができるという意味です。そして、いやし主キリストは、薬や医者に頼らないで病をいやすということではありません。神は薬や医者を通して働かれます。私たちは祈りつつ薬を飲み、医者の治療を受ける者です。また、祈ればどんな病もいやされるというわけではありません。死さえも神に委ねることです。病がいやされることも神の御心の時があれば、いやされない時も神の御心の時があるということです。すべてを神に委ねることが、病のいやしを信じる者の信仰です。そして「再臨の王キリスト」私たちはこの地上で栄えることを願うものではありません。この世はいつか終わりが来ます。私たちは死んで終わりではありません。死んだ後、パラダイスにて、イエスの再臨を待つ者です。死で終わり、また、死んだ後神の裁きを受けるとはどんなに恐ろしいことでしょう。しかし、私たちクリスチャンはイエスの十字架の死によってすでに罪赦された者となり、天の御国に住まいが設けられた者です。死んで終わり、または、神の怒りを受ける者から、天の御国で神と共に永遠に暮らす者に変えられるとは、どれほどの祝福でしょうか。これこそが福音の恵みです。私たちはこの恵みをただで頂く者です。今日、はじめて教会に来られた方、まだこの素晴らしい救いを受けておられない方がおられましたら、ぜひ、神のプレゼントとしてこの救いを自分のものとしてお帰り下さい。