「神の愛と赦し」マルコの福音書10章17節~22章
1、イエス様と富める青年。
新約聖書に登場するイエス様と富める青年のお話は有名です。(マタイ、マルコ、ルカの共観福音書に共通して登場する場面です。)三つの共観福音書に登場するお話の共通点は、この青年が、(1)お金持ちであること。(2)子どもの頃から神様の戒めをまじめに守ってきたこと。(3)永遠のいのちを求めてイエス様の所に来たことです。また、イエス様は彼に欠けている点として、彼が神様を求めながらも自分の財産に捕らわれていること(神様より財産により頼んでいること)に気付かれました。そこで、イエス様はこの青年にもそのことを気づかせるために、彼に、財産を貧しい人々に施して、自分(イエス様)に従うように言われたのです。しかし、彼は悲しみながらイエス様の元から立ち去ったとあります。このお話の結論として、イエス様は、裕福な者が神の国に入ることは難しいと言われました。なぜなら、この青年のように、人は目に見えない神様より、目に見える財産の方により頼んでしまうからです。神様は私たち人間に自由意志を与えてくださいました。それは、私たちに選択する力を与えられたと言うことです。先ほどの青年の場合、イエス様は、神様に信頼するか、財産に信頼するか、どちらを選択するのか青年に委ねられたのです。その結果、彼は財産を選び、イエス様から離れる道を選んだのです。選択には責任が伴います。その結果、この青年は財産を失うことはありませんでしたが、彼が願った永遠のいのちを失うことになったのです。
2、神様と最初に創造されたアダム。
創世記の1章において、神様は全ての創造について説明されました。神は、創造の最後、六日目に人を創造し、産めよ増えよと祝福してくださいました。また、創世記2章において、最初に創造されたアダムをエデンの園に置かれました。また、その時、神はアダムに対して一つだけ戒めを与えられました。17節「しかし、善悪の知識の木から取って食べてはならない。それを取って食べる時、あなたは必ず死ぬ。」創世記の3章に、ヘビ、(サタン)が登場し、女性(エバ)を誘惑しました。二人は神様との約束を破り、善悪の知識の木から取って食べてしまいました。しかし、二人の目は開かれましたが、ヘビが二人に言ったように神のようにはなれませんでした。また、神様が言われたようにすぐに死ぬこともありませんでした。本来、二人は神様の約束を破った者ですから、死んで当然の者でした。しかし、神様は二人を哀れみ、いのちを取られませんでした。その代りに、二人をエデンの園から追い出されたのです。もし、人間に自由意志が与えられず、ロボットのような存在ならば、二人は罪を犯すことはなかったでしょう。このとき、二人は、神様に従うこともサタンに従うことも、可能でした。しかし、二人はサタンのことばに従う選択をしたのです。その結果二人は罰を負わなければなりませんでした。男には、労働の苦しみ、女性には産みの苦しみです。そしてエデンの園と言う神様に祝福された環境からの追放でした。
アダムとエバが悪魔に誘惑されていた時、神様はどこにおられたのでしょうか。また、神様は悪魔が二人を誘惑していることを知らなかったのでしょうか。この事は神学的な難しい問題です。結論を言えば、神様はもちろん知っていました。それではなぜ、神様は二人を止めなかったのでしょうか。それには、神様が二人に自由意志を与えられたことに関係があります。元々、神様はなぜ、人間に「自由意志」を与えられたのでしょうか。それは、人間が自ら、神様の愛に応えるためです。神様は人間を愛していのちを与えられました。そして、神様は、強制ではなく、人間が神の愛に応えて神を愛する者になるように「自由意志」を与えられたのです。それゆえ、神様は私たち人間に「自由意志」を与え、選択する力を与えられたのです。しかし、悪魔に誘惑されたアダムとエバは、神様でなく、悪魔に従う選択を選んでしまったのです。その結果、人間は罪を持って生まれる者になってしまいました。本来なら、この責任は人間が負わなければならない責任ですが、神は、自らこの問題を解決するために、ひとり子イエス様を人の罪の身代わりとされたのです。イエス様はご自分のいのちを差し出すことによって人の罪の問題を解決されたのです。
3、イエス様とイスカリオテ・ユダ。
イエス様を裏切ったイスカリオテ・ユダについて、間違った意見を持っている人々がたくさんいます。その意見とは、イスカリオテ・ユダは、神様によってイエス様を裏切るように選ばれた人だから、イスカリオテ・ユダは悪くはない、彼は神様の意思に従っただけだという意見です。しかし、実は、イスカリオテ・ユダは神様にイエス様を裏切るように選ばれたわけではありません。確かに、イエス様の親しい中から、イエス様を裏切る者が現れることは聖書に定められていました。イスカリオテ・ユダでなくてもその役割を果たす人間はいたはずです。イスカリオテ・ユダがイエス様を裏切った理由はいくつかありますが、彼は弟子たちのお金を預かる会計の責任が与えられていました。しかし、彼はそのお金を盗んでいたとあります。悪魔はその彼の罪を見逃しませんでした。悪魔はそのことゆえに、イエス様を裏切る者として、イスカリオテ・ユダを選んだのです。イエス様はそのことを知っておられました。それゆえ、最後の晩餐の席で、弟子たちの前で、自分を裏切ろうとする者がいることを公にされたのです。イエス様はそのことを通して、イスカリオテ・ユダの裏切りを止めようとされたのです。この時点で、イスカリオテ・ユダには二つの選択ができました。一つは、イエス様に自分の罪を告白すること。もう一つは、悪魔の指示に従ってイエス様を裏切ることです。イスカリオテ・ユダは後者の、イエス様を裏切ることを選択して外に出て行ったのです。ですから、イスカリオテ・ユダの裏切りは、神様の定めではなく、自らの意思で、イエス様を裏切ったのです。そこに、イスカリオテ・ユダの重い罪があります。しかし、イエス様が罪に定められたことを知ると、彼は、祭司たちにお金を返しに行きました。しかし、それは受け取られず、彼は神殿にお金を投げて出て行き、自ら首をつって自殺してしまったのです。あまりにも大きな罪のゆえに彼は耐えきれなかったのでしょう。
4、イエス様とペテロ。
イエス様を裏切った点では、ペテロもイエス様の裁判の場で、イエス様を知らないと三度も言ってしまい罪を犯しました。ペテロはその場から逃げて激しく泣いたとあります。ペテロは自分のふがいなさに耐えきれなかったのでしょう。しかし、イスカリオテ・ユダのように自らの命を絶つことはしませんでした。そんな、ペテロに、死より復活されたイエス様は、彼に「あなたは私を愛しますか。」と三度、聞かれました。ペテロはイエス様のことばによって自分の罪が赦されたことを知ったことでしょう。実は、この事はペテロが自分の弱さを知るために必要な事でした。イエス様が捕らわれる前、ペテロは、イエス様に対して、牢でも死でもでも絶対にあなたを知りませんとは言いませんと宣言しました。ペテロは自分の弱さ醜さに気付いていませんでした。ペテロは、この失敗を通して、自分の弱さ、醜さに気付かされたのです。人は自分の弱さ、醜さを知って初めて、神様に助けを求めることができるからです。
5、結論
神は人に神の愛に自ら応えることができるように「自由意志」を与えてくださいました。しかし、人は神様の愛に気付かず、その「自由意志」を自分の欲望のために使う者になってしまいました。神は私たちを愛し、いのちを与えてくださいました。しかし、私たちがそれに気づかなければ、富める青年のように、または、イスカリオテ・ユダのように神様の愛に背く者になってしまいます。私たちは自分の罪、自分の弱さに気付いた時、初めて神様の愛に気付き、神の愛に応える者になるのです。