神の戒めと人間の言い伝え

マルコの福音書7章1節~23節

今日の聖書の個所のテーマは、どのようにして神の戒めを守り生活に適応するかということです。聖書は神のことばです。だからと言って書かれてある通りに守ることが神の戒めを守ることではありません。時代の違いや生活習慣の違いがあります。律法学者パリサイ人たちは、旧約聖書の戒めを守るために、さらに自分たちの作った戒めを加えるようになりました。それが時代と共に変化し、神の戒めと人の作った戒めとの境が無くなり、人の作った戒めも伝承として、神の戒めと同等の権威で守るように強制されるようになったのです。イエス・キリストは、神の戒めがなんであるか、どのように守るべきかを人々に教えました。それゆえ、益々、律法学者パリサイ人とイエスとの対立は激しくなっていったのです。

1、神の戒めと伝承(1節~8節)

律法学者とパリサイ人たちは、

2節「イエスの弟子たちのうちある者たちが、汚れた手で、すなわち、洗っていない手でパンを食べているのを見た。」

とあります。ここで言われている「汚れた手」というのは、手が汚れていたという意味ではありません。

次にマルコが説明しているように。

3節4節「パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言い伝えを固く守って、手をよく洗わずに食事をすることなく、市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめるなど、受け継いで堅く守っていることが、たくさんあったのである。」とあります。

パリサイ人と律法学者たちはイエスに尋ねました。

5節「なぜ、あなたがたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか。」

パリサイ人と律法学者たちは、イエスの弟子たちはなぜ、昔の人の言い伝え(伝承)を守らないのかと弟子たちを非難したのです。

イエスは彼らにこのように言われました。

6節7節「イザヤは、あなたがた偽善者について見事に預言し、こう書いています。『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」

8節「あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているからです。」

体をきよめることについて、旧約聖書では、祭司が幕屋や神殿において、神にささげ物をするとき、体を洗うことや手を洗うことが戒められていました。しかし、律法学者パリサイ人たちはそれを拡大解釈し、一般の人々も生活の中で、体をきよめること、手を洗うことを守るようにと戒めたのです。衛生面で考えれば、外から帰って来て体を洗うこと、食事の前に手を洗うことは良いことですが、問題は、律法学者パリサイ人たちがそれを神の戒めのように人々に強制したことにあったのです。イエスはイザヤ書29章13節を引用して、彼らの間違いを指摘しました。大切なのは神を敬う心であって、形だけで、心の伴わない行為をしても神は喜ばれないということです。

2、コルバン(ささげ物)について(9節~13節)

またイエスは別の例を出して、彼らの誤りを指摘しました。

9節~13節「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。「モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました。それなのに、あなたがたは。『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うならー』と言ってその人が、父または母のために、何もしないようにさせています。このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです。」

「あなたの父と母を敬え」という戒めは、出エジプト記で、神がモーセを通してイスラエルの民に与えられた十戒の中にある有名な戒めです。しかし、イエスの時代、コルバン(ささげ物)という言い伝えがあり、父や母に捧げる物を神にささげるならば、父や母にささげ物をしなくても良いという制度がありました。一見、神を第一にしているように見えます。しかし「あなたの父と母を敬え」という戒めは、子が父と母を大切にするために与えられた神の戒めです。コルバンは神の戒めを捨てて、神にささげ物をすれば、父や母に何もしないでもよいという教えとなり、神の戒めを否定する間違った教えとなっていたのです。

3、人を汚すもの(14節~23節)

次にイエスは群衆に対してこのように言われました。

15節「外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出てくるものが人をけがすのです。」

ここでイエスが言われた「外から入って、人をけがす物」とは、食べ物の戒律について言われたことばです。神はモーセを通してユダヤ人が、食べて良い動物と食べてはいけない動物について細かく教えています。

申命記14章4節~8節「あなたがたが食べてもよい動物は牛、羊、やぎ、鹿、かもしか、のろ鹿、野やぎ、くじか、大鹿、野羊。ひづめが分かれ、完全に二つに割れているもので、反芻するものはすべてたべてよい。ただし、反芻するもの、あるいは。ひづめが分かれているものの中でも、らくだ、野うさぎ、岩だぬきは食べてはならない。これらは反芻するが、ひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。豚もそうである。ひづめは分かれているが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。それらの肉を食べてはならない。また、それらの死骸に触れてもいけない。」

神がなぜ、イスラエルの民に、きよい動物、きよくない動物、食べて良い動物と食べてはならない動物に分けられたのかその意味ははっきりわかりません。ある聖書の学者は、「神はイスラエルの民にきよさと汚れを教えるために、食べて良い動物と食べてはいけない動物の区別を教えられた」と言いました。

しかしイエスはそれに対して「外から入って人を汚すものはない」と言われました。また

「人の中から出てくるものが、人を汚すのです。」と言われました。弟子たちはイエスの言われたことが理解できず、このことばについてイエスに尋ねました。

イエスは彼らに言われました。

18節19節「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分からないのですか。外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」

イエスは食べ物によって人は汚れることはないと断言されました。当時のユダヤ人にとっては信じられない言葉だったでしょう。

さらにイエスは言われました。

20節~23節「人から出てくるもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考え出てきます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」

イエスの話は、当時の食べ物の戒律を守っていたユダヤ人には、驚くべき教えに聞こえたのではないでしょうか。しかし、今の私たちには納得いく教えではないでしょうか。食べ物によって人は汚れませんが、心から出る悪によって私たちの心は汚れ、犯罪へと進むのではないでしょうか。

今日のお話で何が心に残ったでしょうか。私は、祈りや献金、礼拝が形だけで心が伴っていなければ神に喜ばれないことをあらためて学びました。また、私たちの罪の問題は私たちの心の中にあり、心の中の悪(汚れ)をどう取り扱うのか、それが大事な問題であることを学びました。