神の教え安息日の意味

「マタイの福音書12章1節~14節

イースターの前まで、福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)を通して、イエスの働きを順番に見てきました。前回、ヨハネの福音書5章ベテスダの池で38年間、病に苦しむ人の病を癒したお話しで終わりました。今日はその続き、マタイの福音書12章から安息日の教えについて学びます。この場面は、マルコの福音書、ルカの福音書にも記されています。この安息日の戒めは古く、出エジプトの時に、神がモーセに与えられた十戒の中に納められた有名な神の戒めです。今日の箇所で、パリサイ人たちが弟子たちを咎めたのは、弟子たちがこの神の戒め安息日を破ったという事で、イエスの弟子たちを罪に定めたのです。

1、人の子は安息日の主です(1節~8節)

 1節「そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた。」2節「するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。『ご覧なさい。あなたの弟子たちが安息日にしてはならないことをしています。』」とイエスに訴えました。ここで、パリサイ人たちが弟子たちを咎めたのは、他人の畑に勝手に入って穂を摘んで食べたことではありません。別の戒めに、他人の畑に入って手で摘んで穂を食べることは許されていました。パリサイ人たちが咎めたのは「安息日にしてはいけない行為を行った」ということです。神はモーセに対して安息日に働くことを禁じました。弟子たちが行った「穂を摘むことは刈り取りの仕事」「穂を揉むことは脱穀の仕事」「もみ殻を吹いたことは食事の準備」を行った。このように弟子たちが、安息日にしてはいけない働き三つを行ったと、パリサイ人たちは弟子たちを罪に定めたのです。

イエスは、二つの出来事を通して、弟子たちが行った行為を擁護しました。一つはダビデのケースと、もう一つは宮に仕える祭司たちのケースです。ダビデがイスラエルの王になる前、サウル王に命を狙われました。その時、ダビデは急いで家から逃れたために、何の準備もなく家を離れました。3節4節「ダビデと共の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も共の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。」と言われました。ここでイエスが言われた「臨在のパン」とは、「備えのパン」とも呼ばれ、安息日ごとに十二部族を覚えて聖所にあるパンを並べる机に六個ずつ二並びに置かれたパンの事です。これは生命を支える食べ物を与えられる神に感謝をささげる象徴的な供え物で、新しいパンが備えられると古いパンは引き下げられ、祭司だけが食べることが許されていました。その臨在のパンをダビデと共の者たちが食べたということです。その行為は神の戒めを破る行為でしたが、神はダビデの必要を満たすためにそれを赦された。イエスは、安息日は人を縛るためではなく、人のために安息日がある事を彼らに教えられたのです。

 5節「安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる、ということを律法で読んだことがないのか。」6節「あなたがたに言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります。」「安息日を汚す」という表現は誤解を招きそうですが、イエスが言わんとしたことは、祭司たちは安息日を守らず仕事をしていることを指したことばです。当然、祭司たちは安息日に宮で働かなくてはいけません。彼らは安息日に宮で働くことを神に許された特別な存在です。イエスは「宮より大いなるものがある」と言われました。宮とは神の臨在の場所です。しかし、イエス・キリストは神ご自身です。イエスこそ宮より大いなる者です。そのイエスに仕える弟子たちも、祭司たちと同じ特別な存在だと言われたのです。7節「『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。』とはどういう意味か知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。」8節「人の子は安息日の主です。」7節のことばは、旧約聖書のホセア書6章6節のことばを引用したものです。神は私たちがささげるいけにえよりも、「真実の愛(あわれみ)」を喜ばれると言われたのです。神が私たちに望まれることは、人を罪に定めることではなく、苦しむ者を憐れみ助けることでなのです。

2、安息日に良いことをするのは律法にかなっています(9節~14節)

次の出来事は、「真実の愛(あわれみ)」が「律法」に勝ことが具体的に表された出来事です。9節10節「イエスはそこを去って、彼らの会堂に入られた。すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに『安息日に癒すのは律法にかなっていますか』と質問した。イエスを訴えるためであった。」とあります。「彼ら」とは、パリサイ人たちのことで、イエスが安息日に人を癒されているのを知って、イエスを罪に定めるためにあえて、イエスに質問したのです。11節12節「イエスは彼らに言われた。『あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。』」パリサイ人たちはイエスが病人を癒すことに反対しているわけではありません。安息日に病を癒すことを咎めたのです。なぜなら、安息日の根本は神が創造の業を六日間で完成し七日目に休まれたことに由来しているからです。それゆえ、安息日に病を癒す神の働きをしてはならないと考えたのです。またそれゆえ、彼らは、安息日以外の他の日に病を癒す働きをすべきだと考えたのです。しかし、それは片手の萎えた人を軽視することです。羊でも穴に落ちたら安息日でも引き上げるのに、この方手の萎えた人は毎日、不自由な生活を強いられているのです。そんな彼を助けるのに、安息日だから駄目だというのは、先ほどの「真実の愛に」欠ける考えだとイエスは彼らを逆に咎めたのです。13節「それからイエスはその人に『手を伸ばしなさい』と言われた。彼が手を延ばすと、手は元どおりになり、もう一方の手のように良くなった。」とあります。それを見たパリサイ人たちは、14節「パリサイ人たちは出て行って、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。」とあります。憎しみとは恐ろしいもので、一度、憎しみの思いを持つと、そこから離れることが出来ず、冷静な判断が出来ません。何を見ても悪く見えてきます。彼らが冷静になってイエスのことばを考えるならば、何が正しいか理解できたはずです。しかし、彼らは、イエスの良い業を見ても、イエスを殺すことしか頭に浮かばなかったのです。

安息日は、神が人を祝福するために特別に備えられた日です。しかし、パリサイ人たちは安息日という神の戒めを守ることに重点を置いてしまい、それを守れない人を罪に定めました。イエスの教えは、本来の神の教えに立ち返った教えでした。しかし、パリサイ人たちは神の戒めの本質を失い、神の祝福の戒めを呪いの教えに変えてしまったのです。