神の権威と人からの権威

「ルカの福音書1章16節~45節」
今日の中心テーマは「権威」です。その権威が誰から与えられた権威なのかということが重要です。人間が持つ権威にも力があります。昔で言えば王や将軍は人を殺し生かす権威がありました。今では、総理大臣や大統領も国を左右する力を持っています。人の権威にも大きな力があるならば、神の権威、神から与えられた権威はどれほど大きな力があるでしょうか。
(1)弟子を招くイエス・キリスト(16節~20節)
イエスはご自分の宣教の働きのために4人の漁師を選びました。(ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ)イエスはなぜ、この漁師の4人を選ばれたのでしょうか。学問のある者や家柄の良い人を選んでも良かったと思います。ここで神の選びについて考えましょう。神の権威によって人を選ぶということはその素材(人格、人柄、能力)に関係がありません。大切なことは、神が権威をもって(責任をもって)その人を選ばれたということです。旧約聖書を見ても、神様に選ばれた人は、決して最初から能力や信仰が優れていたわけではありません。しかし神に選ばれた人は神によって変えられていきました。またその働きにふさわしい人格を備えていきました。それこそが神の選びではないでしょうか。それは、現在でも同じことが言えます。神の選びは、能力や学力によるものではありません。神が私を選んでくださった、そこに神の選び(召命)の大切な意味があるのです。

(2)権威ある教え(21節~28節)
イエスが安息日にカペナウムの会堂で教えられると、

17節「人々はその教えに驚いた。イエスが、律法学者たちのようではなく、権威ある者として教えられたからです。」

とあります。人々はなぜ、イエスの教えに驚いたのでしょうか。それは、「律法学者たちのようではなく」とあります。ユダヤ人は土曜日に会堂に集まり礼拝をしていました。礼拝では、賛美と祈りと律法の朗読および解き明かしがされていました。会堂管理者の許可を得た者であればだれでも説教ができました。律法学者たちは過去の偉大なラビ(律法の先生)の教えを解釈し引用して説教をしていたようです。しかしイエスの教えはそのような人の言葉を解釈する説明する説教ではありませんでした。イエスは直接神からのこばを語った
のではないでしょうか。そこには大きな違いがあったのです。
この時、一つの事件が起こりました。汚れた霊につかれた人がとつぜん叫びはじめたのです。

24節「ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」
25節「イエスは彼を叱って、『黙れ。この人から出ていけ』と言われた。」
26節「すると、汚れた霊はその人を引きつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。」
27節「人々はまた驚いて、互いに論じ合った。『これは何だ。権威ある新しいおしえだ。
この方が汚れた霊にお命じになると、彼らは従うのだ。」」

汚れた霊につかれた人とは悪霊にとりつかれた人のことです。悪霊も霊的存在ですからイエスが神から遣わされた「神の聖者」であることを見抜くことができました。また、悪魔自身自分たちが神によって滅ぼされることをすでに知っていました。イエスは悪霊を叱ってこの人から出ていくように命じました。すると、悪霊はイエスの命令に従って悪霊にとりつかれていた人から出て行ったのです。悪霊は霊的な存在ですから人間よりも力があります。その悪霊を命令一つで追い出したイエスの権威(力)に人々は驚いたのです。

(3)病をいやすイエス(29節~31節)
29節~31節でペテロの姑が熱を出して横になっていました。イエスは彼女の手を取り起されると熱が引いたとあります。32節を見ると、人々が病人や悪霊につかれた人々をイエスのところに連れてきたとあります。こうして町中の人々が集まって来ました。ペテロの姑の熱を下げ病をいやされたことが町中に知れ渡ったのでしょう。当時、病院もなく医者と言ってもいかがわしい者が多くいたと言われています。多くの病人はその病のために苦しんでいたのです。ペテロの姑のことを聞いた人々はイエスのなされたうわさを聞いて集まってきたのです。そしてイエスはそのような人々をあわれみ、いやされました。また悪霊につかれた人から悪霊を追い出されたのです。

(4)ツアラアトをきよめる神の権威(40節~45節)
ツアラアト(重い皮膚病)という病はイスラエルの国では特別な病とされていました。旧約聖書おいてモーセに逆らった姉のミリアムが神によってツアラアトに冒されました。南ユダ王国のウジヤ王は高慢になり祭壇に香をたこうとして神の怒りを受けツアラアト冒されたと聖書にしるされています。それゆえ、イスラエルの国ではツアラアトという病は神の裁きによる病という考えがあったものと思われます。またレビ記13章14章にはツアラアトついて詳しく書かれています。
40節でツアラトに冒された人がイエスに助けを求めてきました。彼はイエスに「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」と言いました。ここで彼が「癒してください」と言わずに「きよめることができます。」といったことには意味があります。彼はイエスがツアラアトをきよめる権威があると信じてイエスの前に来たということです。当時、ツラアトをきよめる(いやす)ことは神の御業と信じられていました。それゆえ、彼はイエスを神から遣わされたお方と信じてイエスにツアラアトをきよめてくださいと願ったのです。

41節「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。」
42節「すると、すぐにツアラアトが消えて、その人はきよくなった。」

またイエスは彼にこのように言われました。

44節「だれにも何も話さないように気をつけなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証のために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめのささげ物をしなさい。」

イエスはなぜ、このように彼に命じられたのでしょうか。「だれにも何もはなさないように気をつけなさい」と言われたのは。イエスが呪術者や魔術師と同じ者と誤解されないためです。(呪術者や魔術師たちも病を癒していました。)また、「祭司に見せてささげ物をしなさい」と命じられたのは、彼のツアラアトが完全に癒されたことが公に認められるためにそのように命じられたものと思われます。しかし彼はイエスの命令に従わず、出て行ってふれ回りこの出来事を言い広めたとあります。その結果、イエスは町に入ることができず、町の外の寂しいところにおられたのです。

私たちは神の権威をどのように見ているでしょうか。アブラハムがエジプトに入るとき、妻のサラに妹と言ってくれと頼みました。彼は、妻が美しくエジプト人に奪い取られることを恐れて、サラに頼んだのです。それは、アブラハムが神の権威よりもエジプトの権威を恐れたということです。私たちはアブラハムと同じように目に見える権威を恐れる者です。しかし、人の権威と神の権威どちらが大きな権威でしょうか。聖書を読むなら一目瞭然です。神は創り主で、今もすべてを治めておられるお方です。その神を信じる私たちは何を恐れるでしょうか。私たちは聖書を通して神の権威の偉大さをいつも確認することが必要です。そうしないと、知らぬ間にこの世の権力が大きく見えて、神の力が小さく見てしまいます。神とはどのようなお方でしょうか。神は全能者です。その神が共にいてくださると約束してくださいました。私たちはその約束の言葉を忘れないようにしましょう。