「神の無条件の愛アガペー」ヨハネの手紙第一4章16節~19節
先週カウンセリングの学びで「罪責感」について学びました。罪責とは犯した罪に対する責任のことを言います。(事実としての罪責)それに対して、罪責感とは、犯した罪に対して、自責の念を持ち、それにふさわしい処罰を受けなければならないという感情のことを言います。それゆえ、罪責感には個人差があり、過大に自責の念(自分の罪を大きく感じる)が大きい人もいれば、罪意識が低い人もいます。厳しくしつけられた人は成人して、大きな罪責感をもつことがありますが、逆に、貧しい環境、荒れた環境で成長すれば、人の物を盗んでも罪責感を感じない大人になります。正常な罪責感とは罪責の事実と罪責の感情の均衡がとれている状態を言います。また、異常な罪責感とは、罪責の事実と罪責の感情が均衡していない場合をいいます。この不均衡は心に次のような症状として現れます。
- 罪責感>事実(抑うつ症状・神経症)
- 罪責感<事実(人格障害・偏執病)
この罪責感と罪責の不均衡は、子どもの頃の親との関係に大きく左右されると言われています。親に厳しく育てられ、赦された経験のない人は、より罪責感を大きく持ちやすく、貧しい環境で生き残るのに精いっぱいの状態で育った人は、自己中心で罪に対して自分を責めることのない大人になります。
また、罪意識には二種類があります。(1)意識的な罪責感。(2)無意識的な罪責感です。
意識的な罪責感は犯した罪に対して自責の念を持ちます。無意識的な罪責感とは、「自我意識」が高い場合、それに適合しないものを軽蔑、非難し、意識の外に追い出します。たとえば、「自我理想」が高く、それに達していない自分を受け入れられない。この場合、自分自身を嫌悪し自分を愛することができません。この抑うつされた感情は、次の二つのどちらかの行動を引き起こします。(1)自罰的行動(自己嫌悪・自己への攻撃・自殺)(2)他罰的行動(他者批判・他者攻撃・犯罪)理想的には、理想の自我像と現実の自我像が重なり合うことが心の安定につながります。しかし、この理想の自分と現実の自分が離れれば離れるほど不安定な感情を持つことになります。
私が中学二年生の頃から高校二年生まで、自殺願望があったことは何度かお話しました。実は、なぜそのような自殺願望を持ったのか、今までその原因ははっきりしませんでした。いじめや、家庭に問題があったわけではありません。今、考えると、当時は、異常な潔癖感があり、社会や目に見える物全てに嫌悪感を感じていました。また、自分に対しても先ほどの理想とする自分と、そうではない自分に対して嫌悪感を持ち、自分を愛せない、受け入れられない、そこから自分は生きている価値がない者と思うようになり、自殺を考えるようになったのです。また、そのころ、背が低いことで悩んでいました。私の父も母も背が低く、自分が背が低いのは両親のせいだと考え、心の中で、両親を軽蔑し、自分が背が低いことを両親の責任して両親を憎んだこともあります。また、自分を愛せない人は他人も愛することができないと言われています。私も心から人を愛することができませんでした。そんな時に教会に誘われて、神様の話を聞くようになりました。その時に心に残った言葉が「神様はそのままで愛してくださる。」という言葉でした。今まで私が理解していた神様は、悪い者を罰する怖い神。神とは人を罰するお方だと思っていました。自分で自分を愛せない、そんな者を神様は本当に愛してくれるのだろうか。私はそんな神様なら信じてみたいと思い、それから毎週教会に通うようになりました。
新約聖書はギリシャ語で書かれています。その新約聖書の中で「愛」という言葉がギリシャ語で三種類に使い分けられています。(1)エロス(男女の愛)(2)フィレオー(親兄弟の愛)(3)アガペー(神様の愛)このアガペーの愛は、見返りを求めない一方的に与える愛だと言われています。イエス様のたとえ話の中で「放蕩息子」のたとえ話が有名です。このたとえ話は神様の愛をわかりやすく表したイエス様のたとえ話です。ある人に二人の息子があり、弟は父より将来受け取る財産を前もって譲り受け、遠くの国に旅立ってしまいました。しかし、弟息子はその財産を湯水のように使い果たし、財産を失ってしまいました。また、飢饉のために食べるのも困り、父親のもとに帰る決心をしました。弟息子が家に帰る前に、父親が彼の姿を見つけて、走り寄り抱きしめ口づけをして彼のために宴会をして喜んだというお話です。この父親は弟息子に対して一切責めていません。それどころか、喜んで彼のために宴会を開いてくださったのです。この父親こそ神様の姿であり、父の家に帰る弟息子こそ私たちの姿です。神はそれほど、私たちが自分の罪を認めて、神様のもとに帰って来るのを待ち望んでおられる。また、神様は罪人である私たちを無条件で赦し、受け入れてくださる神であることを表したイエス様のたとえ話なのです。
また、ヨハネの福音書21章で、復活されたイエス様は、イエス様を三度知らないと裏切ったペテロに対して「あなたはわたしを愛しますか。」と三度声をかけられました。そのうちに二度が「アガパオー」という言葉を使っています。それに対してペテロは「フィレオー」という言葉で答えています。イエス様はユダヤ人ですから、ペテロに対してギリシャ語で語られたとは考えられません。この個所は、後にイエス様の弟子ヨハネがギリシャ語で書いた個所です。しかし、ここであえて、ヨハネはイエス様の語りかけを「アガパオー」で表現し、ペテロの応答を「フィレオー」で表現したものと思われます。しかし、大事なことはイエス様はペテロに対して神様の愛(アガペー)でペテロの罪をすでに赦していることを表しているのではないかと思います。私たちもこのペテロと同じ体験が必要です。先ほどの、現実の自分を受け入れるために、無条件の愛が必要だとお話しました。人は無条件で赦され、受け入れられる時にのみ、罪人であり、不完全な自分を受け入れることができるのです。