「神の選びは適材適所」ネヘミヤ記1章1節~11節
今日は「神様の選びは適材適所」という題でお話をさせていただきます。適材適所とは、その人に合った働き場所という意味です。先日まで出エジプト記でモーセについて学びました。モーセは、イスラエルの民をエジプトの苦役から救い出し、神様の約束の地カナンへと導くために生まれ、また、そのために神様に選ばれた人です。モーセが生まれた時代は、エジプトでの迫害が一番厳しい時代でした。男の子が生まれたらナイル川に投げ捨てるように王から命令が出されていたのです。モーセが生まれたとき、モーセの両親はモーセを助けようと隠れて育てますが、隠しきれなくなり、モーセをかごに入れて、ナイルの川岸に置きました。それを、エジプトの王の娘が見つけ出し、自分の養子として育てることを決めました。また、モーセの姉ミリアムはエジプトの王の娘の前に出て、その子のために乳母を連れてきますと約束し、モーセの母を紹介し、モーセは大きくなるまで、実の母に育てられました。そして、モーセが大きくなると、エジプトでの生活がはじまり、モーセはエジプトの王家の子として、当時、最高の教育を受けました。しかし、それで終わりではありませんでした。モーセはヘブル人を助けるためにエジプト人を殺し、そのことがばれるのを恐れ、荒野へと逃げて行きました。モーセは40年間80歳になるまで、荒野で羊飼いとして生活しました。神様がモーセの前に現れたのは、この80歳の時です。モーセはヘブル人としての生活、エジプトでの王宮での生活、荒野での40年の生活を体験しました。実は、モーセがイスラエルの民をエジプトから助け出し、荒野を通ってカナンの地を征服するためには、この三つの生活を体験することがどうしても必要だったのです。
新約聖書に登場するパウロという人物は、キリスト教をユダヤ教から切り離すために必要な人物でした。パウロは小アジヤ、キリキヤのタルソで生まれました。タルソはアンテオケと並ぶ大きな町で、パウロはユダヤ人でありながら、ギリシャ・ヘレニズム文化の中に育ち、外国人と普通に接していたと思われます。また、生まれながらの市民権を持つ豊かな家庭で育てられました。ユダヤ教にも熱心で、将来、偉大な律法学者になることを期待されていました。その彼が、ダマスコにキリスト者を捕らえに行く途中、復活されたイエス様と出会い、クリスチャンとなり、イエス・キリストを世界中に広める宣教師となったのです。パウロが異邦人に伝道している時、ユダヤ人でクリスチャンとなった人々が、異邦人にも割礼を施すべきだと主張しました。しかし、それに対してパウロは大きく反対しました。パウロにとって、救いは、イエス様を救い主と信じる信仰によって救われるのであって、割礼という儀式によって救われるのではないという強い考えがあったからです。パウロはキリスト教に割礼を取入れることを強く反対しました。もし、キリスト教が割礼を受け入れたならば、キリスト教とユダヤ教の境があいまいで、キリスト教はユダヤ教の一宗派にとどまっていたかもしれません。また、割礼がある事によって異邦人には受け入れにくい教えになっていたでしょう。パウロが強く反対したおかげで、割礼がキリスト教の中に入ることがなかったゆえに、キリスト教は世界中に広がることができたのです。それは、キリキヤのタルソで生まれたパウロだからできたことでした。
ネヘミヤという人物は、王様の献酌官でした。当時、世界はペルシャによって支配されていました。ユダヤの国は捕囚が許され、国は再建され百年がたちましたが、城壁も崩されたままで、混乱が続いていました。ある時、ネヘミヤは親類のハナニがユダヤから帰って来た事を聞き、エルサレムの現状について質問しました。すると3節「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は焼き払われたままです。」それを聞いたネヘミヤは、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して神様の御前に祈ったとあります。王の献酌官とは王にお酒を注ぐだけではなく、王の良き相談者の事を言います。王に信頼された行政長官です。そのネヘミヤがユダヤの国のことを思い、断食して祈りました。また、彼はこのためにエルサレムの城壁を再建することを決心したのです。ユダヤの国が再建されて百年がたちましたが、ユダヤの国は城壁がないために、周りの国々から責められ、または、ならず者が集まる荒れた国でした。ネヘミヤは王に国に帰り、城壁を再建する許可を王様より受けることができました。そして、52日間という短時間で城壁を完成させたのです。それには、彼の行政官としての才能と王の支援という特別な助けが必要でした。ネヘミヤは城壁を52日間で完成させましたが、実は、この働きは、短時間で完成させなくてはならない大切な働きでした。もし、長い時間をかけたなら、他からの邪魔が入り、完成は難しかったでしょう。この工事は、ネヘミヤだからこそできた工事でしたが、神様はそれゆえ、ネヘミヤを用いられたのです。
私たちが何か物を作る時、目的を持って作ります。神様も同じように私たちをこの世に、生み出す時、目的を持って私たちを作って下さいました。神様の目に、目的もなく生まれた者はいません。また、教会は一つの体に例えられ、一人一人は、それぞれの器官であると説明されています。この教会に無駄な人は一人もいません。それぞれ、神様に与えられた目的があります。また、神様はその目的のために、一人一人に賜物を与えてくださると約束して下さいました。賜物は、個人のためではなく教会の徳を高めるために与えられていると言われています。教会は、適材適所、それぞれ与えられた賜物を用いて、互いに仕え合う場です。一人として同じ人はいません。また、賜物に大きい小さいはありません。神様より与えられた賜物を用いることによって、その人も祝福され、教会も祝福されるのです。クリスチャンになる前の経験も、クリスチャンになってからの経験も無駄ではありません。マタイはイエス様と出会う前は、ローマ政府に雇われた取税人(ローマ政府のためにユダヤ人から税金を集める人)でした。その彼が、12使徒となり、書き上げたのマタイの福音書です。マタイは取税人の時から、ギリシャ語で文書を作成することになれていたと思われます。イエス様の弟子は12人いました。その中で、神様はマタイを選び彼の能力を用いて、イエス様の生涯、マタイの福音書を書き上げさせたのです。同じように、神様は私たちにも賜物を与え用いたいと願っています。神様は、私たちに賜物を与え豊かに用いたいと願っています。また、神様のため与えられた賜物を教会のために用いる時、教会が祝福され、また、自分の人生も祝福されるのです。