神を礼拝する民

「神を礼拝する民」創世記4章1節~8節

 8月に入りますと各地で夏祭りなどが開かれ、やぐらを組んで盆踊り大会などが行われます。元々、祭りとは神様を礼拝する行為で、やぐらの周りで踊ることも神様へささげる礼拝でした。しかし、時代と共に、その本質が失われ、踊ることが楽しみとなり、個人の娯楽へと移り変わってきました。今ではだれも神様のために踊っているという意識の人はいないでしょう。本来、祭りとは、神様に収穫の感謝のために行われたものです。特に農業で生活している人にとって、天候は神様の恵みであり、人間の力ではどうすることもできない問題です。それこそ、神様だけが頼りの世界です。それゆえ、人々は、豊作を神様に感謝し、収穫物の一部を神様にお供えし、神様の前で踊ることによって、神様への感謝の気持ちを表したのです。

 聖書における神様への礼拝は、創世記の4章カインとアベルのささげ物までさかのぼります。ここで大事なことは、誰のささげ物に神様の目は留められたかということです。カインは土を耕す者でしたから、彼は土の作物から主へのささげ物を持ってきました。アベルは羊を飼う者ですから、羊の初子の中から、それも最上のものを持ってきたとあります。そして、神様はアベルのささげ物には目を留められたが、カインのささげ物には目を留められませんでした。地の作物よりも羊の方が価値があるから神様はアベルのささげ物に目を留められたのでしょうか。ある、聖書を題材とした漫画の中で、カインが作物を無造作に手でちぎって、神様の前に投げてささげる場面が描かれていました。聖書にはそのようには書かれていません。しかし、私はカインの心を表した表現だと思いました。聖書は確かに、アベルは羊の初子の中から、それも最上のものを持ってきたとあります。カインは果たして、作物の中から、最上のものを選んでささげたのでしょうか。神様はそのささげられた物よりも、ささげた人の心の中を見られるお方です。神様は、アベルの心の中に確かに、神様への感謝の思いがあることを認めましたが、カインの心の中にはアベルと同じような感謝の気持ちを見つけることができませんでした。その結果、神様はアベルのささげ物に目を留められ、カインのささげ物には目を留められなかったのです。

 神様はアブラハムを選ばれ特別な契約を結ばれました。その契約とは、アブラハムの子孫を祝福し、アブラハムの子孫を神の民として受け入れるという特別な契約でした。その後、神様はモーセを通して、イスラエルの民に神の民が守るべき戒めとして十戒を与えました。また、神を礼拝するために幕屋と祭壇を作らせ、細かい規則を教えられ、これを守るように命じられました。また、神に仕える部族としてレビ人を選び祭司として任命されました。しかし、時代と共に、人々の心は神様から離れ、形としては動物の犠牲を捧げていても、カインのように感謝の気持ちの伴わない礼拝となっていきました。神様は預言者を遣わし、イスラエルの民に警告を与えましたが、彼らは預言者のことばに耳を傾けませんでした。それゆえ、神様はバビロニヤの国を通して、イスラエルの国を滅ぼし祭壇を破壊されたのです。バビロニヤに捕囚となった民は、自分たちの罪を悔い改め、もう一度、神様を求めるようになりました。そして、人々は神様の約束のことば(旧約聖書)を学ぶようになり、各地にユダヤ教の会堂が建てられるようになったのです。彼らは神様の戒めを学び、動物の犠牲ではなく、自分自身の生活をささげるようになったのです。

 しかし、その礼拝も形式だけとなり、人々への愛と憐れみを失った、自分だけの正しさを誇る信仰へと移っていきました。イエス様が30歳となり、宣教の働きを始められた時、イエス様は一番に、律法学者パリサイ人たちの偽善的な信仰を批判されました。そして、自ら貧しい人々、罪人と呼ばれる人々に近づき、神様の福音のことばを語りました。しかし、パリサイ人たちは、罪人たちと交わるイエス様を批判し、十字架に着けて殺してしまったのです。しかし、イエス様は死より三日目に復活され、弟子たちに姿を現し、以前、霊と真をもって神を礼拝するように教えられたことを思い出させたのです。

 今日は、聖書を通して礼拝について考えてきました。神を礼拝するとは、物や形ではなく、ささげる者の心が大事であることを見てきました。また、神様は創造の七日目を休まれたとあります。創世記2章3節「神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神様がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」とあります。神様は私たちを祝福するために七日目を聖別し、人を祝福する日を定めてくださいました。それを安息日と呼び、ユダヤ人は、金曜日の夕方から土曜日の夕方までを、神を礼拝する日と定めました。私たちクリスチャンは、イエス様が死より復活された日曜日を新しい安息日として礼拝の日と定めました。神様は一週間のこの一日を特別な日と定めてくださったのです。礼拝は私たちだけが神様に感謝する日だけではなく、神様が私たちを祝福するために定めてくださった特別な日です。今日もそのことを覚え、神様の恵みに感謝すると共に、神様が私たちを祝福してくださる特別な日として、神様の恵みをうけとりましょう。