神様との出会い

「神様との出会い」ヨハネの福音書3章1節~15節

4月は出会いの季節でもあります。新入学、新入社員との新しい出会いがあります。しかし、私たちはすべての出会いを覚えているわけではありません。それこそ、忘れてしまった出会いがたくさんあります。また、その出会いの中で、人生を変える出会いもあれば、忘れられない出会いもあります。私が牧師として講壇に立つことができるのも、多くの牧師先生や宣教師の方々のおかげです。

そのように、人間と人間との出会いにも人生を変える出会いがあるのならば、神様との出会いはどれほど私たちの人生を変える力があることでしょう。今日は、聖書を通して神様との出会いについて考えます。

まず、ヨハネの福音書3章では、イエス様とニコデモとの出会いが書かれています。ニコデモとはどのような人物でしょうか。1節に「パリサイ人」「ユダヤ人の指導者」であった。とあります。パリサイ人とは、ユダヤ教に熱心で、旧約聖書の戒めを厳格に守り、人々にも戒めを守るように指導する人々の事をさします。また、「ユダヤ人の指導者」とは、当時、ユダヤの国はローマ帝国に支配されていました。しかし、ローマ政府は、ユダヤ人には寛容で、ユダヤの国を治めるために、ユダヤ人の中から議員を選ばせ、彼らに国の政治を任せていました。それをサンヘドリン(ユダヤ人議会)と呼び、日本の国会のような機能を有していました。サンヘドリンはユダヤ人から選ばれた議員71人で構成され、ニコデモはその議員の一人でした。ニコデモがいかに、ユダヤの国で大変地位の高い人であることがわかります。そのニコデモが夜、イエス様を訪ねました。ニコデモが夜、イエス様を訪ねた理由は、人目を気にしてだと思われます。イエス様に人気があるといっても、その人気は一般市民の間だけで、上流社会や、知識階級の人々は、だれもイエス様を律法の教師とさえ認めてもいませんでした。そのような状況でニコデモがイエス様を訪ねるとは、かなりの勇気が必要であったと思われます。ニコデモはイエス様に言いました。2節「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるようなしるしは、だれも行うことができません。」ニコデモはイエス様がなされた奇跡をうわさで聞いて、イエス様が本当に神様から遣わされた方であるのかを確かめるために、イエス様のもとに来たのです。イエス様はニコデモに言われました。3節「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモはイエス様に「神の国」について、何も言いませんでした。しかし、当時のパリサイ人の中心議題は「神の国」であって、人々はどうすれば「神の国(天国)」に入ることができるのかが議論されていたのです。イエス様はそれを知っておられたので、ニコデモの一番の関心である神の国についてお話になられたのです。また、イエス様はニコデモに「新しく生まれなければ」とも言われました。「新しく」とは「上から」とも訳せることばが使われています。パリサイ人たちの議論は、どのようにして、神様の戒めを守り、神の国に入るかでした。しかし、イエス様が言われたことは、人間の努力ではなく、「新しく生まれる」も「上から生まれる」も神様の働きであり、人間の努力や力では、神の国に入ることができないことを示しています。ニコデモはイエス様のことばを理解できずに、4節「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」ニコデモはもう一度、生まれなおさないといけないと理解したのですが、イエス様が言われたのはそのような意味ではありませんでした。「新しく」「上から」「御霊によって」とは、人間の努力によってではなく、神様の御業によってということです。14節にある「モーセが荒野で蛇を上げたように」とは、旧約聖書の民数記21章の出来事の事です。イスラエルの民がモーセに不平を言った時、神様はイスラエルの民に燃える蛇を与え彼らを苦しめました。イスラエルの民がモーセに助けを求めると、神様は青銅の蛇を作りそれを旗ざおの上に着けるように命じられました。そして、民が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きたとあります。そして、それは後の十字架のイエス様を指していました。(14節15節)イエス様がニコデモに言わんとされたのは、人間の努力では神の国に入ることはできない、しかし、人が神の業(十字架)を信じることによって永遠の命を得るということです。この時、ニコデモはイエス様の言われたことを理解できませんでした。しかし、後にイエス様が十字架につけられ殺された後、ニコデモはアリマタヤのヨセフと共に、イエス様の体を受け取り、お墓に埋葬したとあります。十字架につけられ殺された犯罪人の体を受け取ることは議員であるニコデモにとって、危険な行為です。それでも、二人がイエス様の体を受け取りに行ったことは二人のイエス様に対する信仰による証であると思われます。イエス様の復活の後、二人もイエス様の弟子となり、弟子たちの仲間に入ったものと思われます。

旧約聖書の創世記25章から、アブラハムの孫ヤコブの物語が始まります。この出来事から今日、私たちが学びたいことは、私たち一人一人が神様と日々、格闘しなければならないということです。格闘とは祈るということです。ヤコブはアブラハムの孫ということで、子供のころから神様の話を聞かされていました。しかし、ヤコブは家を出るまで、神様との関係はありませんでした。彼にとって神とは、アブラハムの神、父イサクの神でした。しかし、ヤコブが20年ぶりに故郷に帰るとき、兄の怒りを恐れて家に近づくこともできませんでした。そして、ある夜、ヤコブは神と格闘したのです(創世記32章24節~32節)ここでヤコブはもものつがいをはずされても神様にしがみつきました。そこで、神様はヤコブに「イスラエル(神と戦う)」と言う意味の名を神様から頂いたのです。ヤコブが神様の祝福を受けたのは、彼がアブラハムの孫だからではありません。ヤコブが個人的に神様にしがみついた。ということは、彼が、神様だけに信頼することを決心したということです。私たちがクリスチャンであることは、親がクリスチャンであるからとか、牧師の家庭であるからとは関係ありません。私たちがイエス・キリストを真の神と信じたからです。そして、イエス以外には何にも頼らないと決心したからです。その見える形が洗礼式です。

神と出会うとは、知識としてイエス様が神であることを信じるというのではありません。神は今も生き、全世界を治めておられるお方であることを信じ、その方に生涯をささげる、共に生きることを決心することなのです。