神様の愛とキリストの誕生

「神様の愛とキリストの誕生」ピリピ人への手紙2章6節~8節

何年か前の事ですが、「あなたの好きな言葉は何ですか」というアンケートを世界中で行った結果「愛」という言葉が一番で、その他に、平和とか幸福という言葉も多くあったそうです。日本語で愛、英語でラブ、韓国語でサラン。旧約聖書ではヘセド、新約聖書ではアガペーが有名です。愛にも色々な形の愛があります。親子の愛。兄弟愛、夫婦の愛など。先ほどのアガペーは神様が私たち人間を愛する時に用いられる言葉です。その意味は、一方方向の愛。見返りを求めない愛と説明されます。新約聖書では他にフィレオーとい愛の言葉が使われています。フィレオーは先ほどの兄弟愛、家族愛などに用いられる愛の言葉です。

イエスの福音12月号で、昭和三年に書かれたフランシス宣教師の説教の中で、吹雪の中、幼い自分の子の命を守るために、自分の着ている着物で幼子をくるみ、自分は死んで赤子を助けた実話が紹介されていました。自分の子の命を助けるために自分の命を犠牲にする母親の愛の素晴らしさが表されたお話です。それほど、子を思う母の愛は素晴らしいものです。

イエス様が捕らえられると、弟子たちはイエス様を一人置いて逃げてしまいました。しかし、弟子の一人ペテロはイエス様の事が心配で、イエス様の裁判の様子をうかがうために、イエス様が裁かれる場所に近づきました。しかし、周りの人に「あなたもイエスの弟子ではないか」と声をかけられたとき、ペテロは「イエスなど知らない」と自分とイエス様と関係を否定してしまいました。しかも、三度も同じように自分がイエスの弟子でないことを宣言してしまったのです。しかも、イエス様はペテロが自分の事を知らないと三度、否定することをペテロに預言していました。しかし、ペテロはそんなことは絶対にありませんとイエス様に宣言していたのです。ペテロは自分の弱さに悲しんでその場を逃れていきました。それから三日後、イエス様はペテロの前に姿を現し、「あなたはわたしを愛しますか。」とアガペーの言葉を使ってペテロに話しかけかけました。ペテロは「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存知です。」と答えましたが、ペテロはアガペーという言葉を使わないでフィレオーという言葉を使いました。三度目、イエス様はフィレオーという言葉を使ってあなたはわたしを愛しますかと尋ねました。ペテロは最後までフィレオーという愛の言葉しか使うことができませんでした。もし、私たちがペテロと同じ立場に立たされたら、自分の命の危険をおかしても、イエス様の弟子であることを人々の前で認めることができるでしょうか。愛の反対は無関心だとある人が言いましたが、愛の反対は自己中心でもあります。自分さえ良ければという態度が、人々を傷つけ人を迫害します。また、自己中心が戦争やテロを引き起こしているのです。

ピリピ人への手紙2章6節~8節「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」とあります。以前、日曜学校で子供たちにイエス様の誕生のお話をした時、神が人として生まれると言うことは、皆さんが、ゴキブリを助けるためにゴキブリになることと同じことですという話をしました。すると、こどもたちは、「嫌だ、気持ち悪い。」と答えました。たとえば、可愛いうさぎを助けるために、うさぎになると言うのであれば、納得するかもしれません。しかし、ゴキブリを助けるためにゴキブリになるということを受け入れる人はいないでしょう。しかし、ここでパウロは、神の子であるイエス様が人として生まれるということは、どれほど、イエス様は自分を卑しくされたかということを伝えているのです。神は、全能で、死ぬことはありませんでした。空腹や痛みなど無縁の存在でした。しかし、そんなイエス様が、私たちと全く同じになられたのです。イエス様を死刑に定めたユダヤ人たちもイスラエルの神を信じる者たちでした。しかし、彼らは神が人として生まれる(人と同じになる)ということを信じることができませんでした。彼らにとって神は偉大な存在であり、自分たちと同じになり人と共に生活するなど考えられないことでした。それゆえ、イエス様がご自分の事を「神の子」と認めたことを、神を冒涜したとして十字架につけて殺してしまったのです。

私たち人間の知恵では、神がどのような方法で人として生まれたのか理解することはできません。しかし、なぜ、神が人として生まれなければならなかったのかその理由は理解することはできます。人の罪の身代わりとなるためには、罪の無い人が必要です。しかし、聖書はすべての人は罪を犯した者であることを教えています。すると、人はどんな偉い人でも、人の罪の身代わりにはなれないということです。唯一罪の無いお方は神様だけです。しかし、神様は霊的な存在で死ぬことはできません。そこで、私たちの罪の身代わりとなる条件は、罪がなくて、人でなければなりません。そうであるならば、神が人として生まれるほかに私たちの罪の身代わりになることはできないということです。神であって人として生まれたお方、それはイエス・キリスト以外には誰も存在しないのです。

私がイエス様を神の子と信じた根拠は聖書の中にあります。私が聖書を読んで不思議に思ったことは、イエス様は十字架につけられて殺される前に、何度でも逃げるチャンスがありました。それどころか、あの裁判の時、大祭司に「あなたは神の子か」と聞かれたとき、自分は預言者だと答えるなら死刑の判決を大祭司は下すことができなかったのです。そのことは、イエス様自身もわかっていたはずです。なのに、イエス様はあえて、ご自分が神の子であることを認められました。それは、自分が死刑を覚悟したということです。誰がそんなこと認めることができるでしょうか。唯一、イエス様はご自分が神の子として人の罪を背負い死ぬことが神様の計画であることを認められたから、十字架で死なれたのです。

人間はゴキブリのためにゴキブリになることはできません。しかし、イエス様は人間を救うために人として生まれてくださったのです。そのことは、人間の知恵では理解できないことです。ぜひ、聖書をお読みください、そこに、イエス様が人として生まれた意味が書かれてあります。神の愛アガペーは見返りを求めない一方的に与える愛です。イエス・キリストは私たちを救うために、あえて、貧しい姿で生まれてくださいました。そこに、神様の人に対する深い愛が表されているのです。