マタイの福音書13章1節~9節
マタイの福音書13章1節~3節「その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると大勢の群衆がみもとに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆はみな岸辺に立っていた。イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた。」とあります。イエスが湖のほとりに座っておられると大勢の群衆が集まってきました。イエスはこの群衆を見て、この種蒔きのたとえを話されました。この群衆の中には、イエスの話しに興味を持って集まったものもあれば、半信半疑で集まった者たちもいたことでしょう。イエスはそのような、彼ら(群衆)に対してこの種蒔きのたとえを話されたのです。
1、道端に落ちた種(3節4節)
「見よ。種をまく人が種蒔きにでかけた。蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。」その意味は、19節「だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。」このことばから、この種蒔きのたとえ話の「種」とは「御国のことば」であることがわかります。そのうえで、この御国のことばを聞いたのに、道端に蒔かれた種は、「鳥が来て食べてしまった」と初めのことばでは表していますが、その「鳥」とは「悪い者(サタン)」が持ち去ってしまうと説明しています。たとえ群衆の中にいたとしても、神の国について興味のない人には、イエスのことばは心に留まることなく、過ぎ去ってしまうという意味です。イエスは弟子たちに言われました。11節12節「イエスは答えられた。『あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。持っている人は与えられてもっと豊かになり、もっていない人は持っているものまで取り上げられるのです。』」ここで言われている「持っている人」とは、御国についての興味を持っている人のことであり、その人はイエスの話を聞くことによって、さらに多くの祝福を受けます。持っていない人とは、「御国」について興味のない人で、その人はさらに遠く神から離れ、最終的に天の御国を失ってしまう人たちのことです。
2、岩地に落ちた種(5節6節)
「また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽をだした。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」その意味は、20節21節「また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」ここで言われている「根」とは何でしょうか。それは、イエス・キリストの事です。私たちは教会に何を求めて集まっているでしょうか。ある人は病の癒しのためかもしれません。その人にとって、神は何でも良い、他の神々でも病が癒されるためならなんでもするという人は、病が癒されない(願いがかなえなれないなら)他の神々宗教に移っていく人々です。また、ある人は人との交わりが楽しくて教会に集う人もいます。勿論、初めはそれで良いでしょうが、「根(イエス・キリスト)」がないために、人につまずいたり、困難や迫害が起こると、身を引いてしまう人たちのことです。教会の中心はイエス・キリストです。このイエスとの出会い無くして、教会生活を続けることはできないのです。
3、茨の中に落ちた種(7節)
7節「また、別の種は茨の間に落ちたが、茨が伸びてふさいでしまった。」とあります。その意味は、22節「茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」「実を結ばない人」とありますが、逆に「実を結ぶ人」とは、どのような人の事でしょうか。次の良い地に蒔かれた種は、百倍、六十倍、三十倍の実を結びますとあります。それは、心の豊かさを表したことばではないでしょうか。将来のことを心配していつも心の中に思い煩いがある人、お金に執着している人は、物やお金に心が支配されて、心豊かになることはできません。イエスはマタイの福音書6章25節から34節でこのように言われました。「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。・・・」中心は、神が私たちの父になってくださるので、先の事まで心配しなくてもよいと言う意味です。思い煩いに心が支配されていると実を結ぶことができないということです。
4、良い地に蒔かれた種(8節)
8節「また、別の種は良い地に落ちて実を結び、ある者は百倍、ある者は六十倍、ある者は三十倍になった。」とあります。その意味は、23節「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、ある者は百倍、ある者は六十倍、ある者は三十倍の実を結びます。」「みことばを聞いて悟る人」とありますが、別の聖書の箇所では、「みことばを聞いて受け入れる人」とも訳されています。「悟る」「受け入れる」と、「理解する」とは、大きな違いがあります。私たちは天地を創られた神を理解することは出来ません。逆に、人間に理解できる神など、神として崇めるに値する神でしょうか。旧約聖書で神と人間の関係を、陶器師と陶器の関係で表した箇所があります。それは、創り主と造られた者の違いを表した箇所です。私たちは神に創られた者で被造物と呼ばれる者です。しかし、人間が考えた宗教は、人間が主人で、主人の目的を達成するために神を崇める宗教がたくさんあります。しかし、キリスト教は、神が主人で私たちは神によって創られた者です。また、神は私たちを祝福するためにいのちを与えてくださいました。そこに、神と人間の信頼関係があります。神が、キリストが心の中心にあるなら、どんな状況でも失望することはありません。とはいっても、「いわしの頭も信心から」というような、盲目的な信仰を押し付けているわけではありません。神は、私たちに聖書のことば(神のことば)を与えてくださいました。私たちは、その聖書(神のことば)を通して、神が創り主であり、私たち罪人の父となって下さったことを信じています。また、イエス・キリストは神の姿を捨てて、人として生まれ、私たちの罪の身代わりとして、十字架で死なれ、三日目に復活して天に昇って行かれたことを信じています。この処女降誕と死よりの復活は、人間の知恵では理解できないことです。神が私たちに求められたのは、処女降誕と復活を理解することではなく、神の業として信じ受け入れることです。これこそが私たちの信仰なのです。イエスの周りには多くの群衆が集まりました。その中には、道端、岩地、茨、良地の心の人が集まっていたのです。あなたの心の状態はいかがでしょうか。良い地に蒔かれた種となっているでしょうか。