紅海を歩いて渡るイスラエルの民

出エジプト記13章17節~22節

神はアブラハムを祝福し、彼の子孫にカナンの地を与えると約束してくださいました。アブラハムからイサクが生まれ、イサクからヤコブが生まれ、ヤコブから12人の子が生まれました。また、彼らは飢饉のためにエジプトに移住しました。その後、彼らの子孫がエジプトで増え広がりイスラエルの十二部族となりました。ヤコブの家族がエジプトに移住して400年後、新しくエジプトの王に就任したファラオはへブル人(イスラエル人)の人口の増加を恐れ、彼らを迫害しました。また、モーセは男の子が生まれたら殺さなければならないという迫害の中で生まれました。モーセの両親は幼子を隠すことが出来なくなり、彼をかごに入れてナイル川の川岸に置きました。そこにエジプトの王の娘が現われ、そのかごを見つけ、かごの中の男の子をかわいそうに思い、自分の子として育てる思いを持ちました。それを見ていたモーセの姉は、その子のために乳母を呼んで来ますと言って、モーセの母を連れてきました。エジプトの王の娘は、モーセの母に賃金を払い大きくなるまで育てるように命じました。また、モーセが大きくなると、彼はエジプトの王の娘の子として王宮で育てられました。このようにモーセは、へブル人として生まれ王の娘の子として王宮で育てられたのです。40歳になったモーセはへブル人の苦しみを見て彼らを助けたいと思いました。しかし、その時は失敗し、荒野へと逃げて身を隠しました。モーセは荒野で40年羊飼いとして暮らしました。モーセが80歳になった時、神がモーセに現れ、イスラエルの民をエジプトから助け出すように命じました。モーセは兄アロンと共にエジプトへ行き、エジプトの王と交渉しますが、王はへブル人がエジプトから出ることを許しませんでした。そこで、モーセはエジプトに10の災害を与えました。 その10番目の禍が、エジプト中の長子を殺すという神の裁きでした。しかし、へブル人にはモーセによって一つの救いの方法が与えられていました。それは、門と鴨居に羊か山羊の血を塗ることでした。神はその血を見てその家を通り越すと約束してくださいました。そして、神の裁きがエジプトに下り、ファラオの子も死んでしまいました。この苦しみを経て、エジプトの王はへブル人がエジプトを出ることを許可したのです。

エジプトを旅立ったイスラエルの民は男性だけで60万人と記されています。女性、子どもを加えるなら100万人以上の民が一度にエジプトから旅立ったのです。神は、近道のペリシテ人の地を避けて、葦の海(紅海)の道へと導きました。出エジプト13章21節22節「主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。」とあります。14章に移って、エジプトの王はまたも心を変えて、へブル人を連れ戻すために軍隊を差し向けました。エジプトの軍隊を見たへブル人たちはモーセを咎めて言いました。11節「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。」エジプトでの苦しみから助け出してくださいと神に祈ったのは彼らでした。しかし、さらなる苦しみが襲おうとしたとき、彼らは、モーセに対して、神に対して不平を述べたのです。モーセは民に言いました。13節14節「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」神はモーセに言われました。16節「あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。」モーセが神のことばに従と、神は東風を起し波が壁のように立て上げられ、海の乾いた地が現れました。へブル人は急いで海の乾いた地を渡りました。エジプト人も彼らを追って海に入りましたが、モーセが杖を海に向けると波は元に戻り、エジプト人を飲み込んでしまいました。30節「こうして主は、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルは、エジプト人が海辺で死んでいるのを見た。」とあります。この後、イスラエルの民は荒野へと向かって旅を進めたのです。

イスラエルの民の苦しみはこれで終わりではありません。彼らは荒野において、水がない食べ物がないとモーセに対して不平不満を言い続けました。そのたびに、モーセは神に祈り、神に助けを求めました。神は彼らのために、岩から水を出し、マナと言われる不思議な食べ物を与え、彼らを荒野で40年も養われたのです。イスラエルの荒野の旅は私たちの人生にたとえることが出来ます。私たちの人生も楽しい時もあれば、苦しみの時もあります。神様を信じていても苦しみの時は訪れます。私たちは苦しみの時、だれに助けを求めるでしょうか。親や友人に助けを求めることは出来ます。しかし、人間では解決できない問題に出会った時はどうするでしょうか。旧約聖書に登場するダビデ王は羊飼いの家に生まれました。そして、神は彼をイスラエルの二番目の王に選ばれました。しかし、最初の王サウルは依然として王の権力を持ち、ダビデを殺そうと付け狙いました。ダビデは、神に選ばれましたが、自分のいのちを守るために、サウル王から逃げ回らなければなりませんでした。後に、サウル王は戦に破れ殺されました。その後、ダビデはイスラエルの偉大な王となったのです。その彼が作った詩が有名な詩篇23篇です。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のゆえに 私を義の道に導かれます。たとえ 死の影の谷を歩むとしても、私はわざわいをおそれません。あなたが ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え、頭に香油を注いでくださいます。私の杯は あふれています。まことに 私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。私はいつまでも 主の家に住まいます。」ここで「むち」は外敵から羊を守る武器です。また「杖」は羊を岩場から引き上げるために使われる道具になります。ダビデは、いのちの危険が迫っても恐れませんでした。彼はどんな状況でも主(神)が共におられることを知っていたからです。先程のイスラエルの民が荒野で40年も生きられたのは、神が共におられたからです。神は、遠くから私たちを眺めているだけの神ではありません。私たちが望むなら、この神が、イスラエルの民やダビデと共におられたように、私たちとも共におられるのです。イエスが死より三日目に復活され、弟子たちにその姿を現され、天に昇られるとき、イエスは彼らに言われました。マタイの福音書28章20節「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」この約束のことばは、弟子たちだけではなく、今、イエス・キリストを神の子と信じる、私たちに与えられた約束でもあるのです。