罪の悔い改めと神の赦し

詩篇51篇1節~9節

聖書は成功した人より、失敗した人を多く取り上げています。そして、失敗した人の対応が二つに分かれています。一つは、自分の罪を認めない。他人に責任転嫁する人。もう一つは、自分の罪を認めて悔い改め新たな道を歩む人です。

1、アダムとエバの場合

聖書で、最初に罪を犯した人はアダムとエバでした。創世記の3章で蛇が登場しエバを誘惑しました。そして、アダムとエバは神が禁じた「善悪の知識の木」から取って食べてしまいました。その後、神の声を聞いた二人は神を恐れ、木の間に身を隠しました。創世記3章9節「神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。『あなたはどこにいるのか。』」10節「彼は言った。『私は、あなたの足音を園の中で聞いたので、自分が裸であるのを恐れて、身を隠しています。』」11節「主は言われた。『あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。』」ここで神は全知全能の神ですから、アダムとエバがどこに隠れているのかご存じでした。それでも、神がアダムに呼びかけたのは、彼が自分の罪を認めて神の前に出ることを期待してのことでしたで。アダムは神の前に出て言いました。12節「人は言った。『私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。』」アダムは自分の罪を認めず、女(エバ)に責任転嫁しました。しかも「あなたが私に与えてくださったこの女が」とまで言っています。確かにアダムは真実を告げています。しかし、だからといて彼に罪が無いとはいえません。彼は自らの意思で食べたのですから。13節「神である主は女に言われた。『あなたは何ということをしたのか。』女は言った。『蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。』彼女も真実を述べていますが、彼女も自分に罪が無いとはいえません。彼女も自分の意思で食べたのですから。二人とも、自分の罪を認めず、アダムはエバに、エバは蛇に責任転嫁しました。神はアダムに対しては労働の苦しみを与え、エバには苦しんで子を産み、また、夫に支配されるという罰を与えました。神は二人をエデンの園から追い出されましたが、そのとき、神は二人に皮の衣を与えて追い出されました。そこに罪を犯した二人に対する神の愛と慈しみをみます。

2、ダビデ王の場合

ダビデは羊飼いの家に生まれましたが、神の恵みによってイスラエルの二番目の王になった人物です。ダビデはイスラエルの王の中でも一番有名な王となりました。しかし、ダビデもいくつかの罪を犯しました。一番大きな罪が、バテ・シェバとの姦淫の罪です。ダビデが王となり国が平和になった時、ダビデは王宮の屋上から入浴しているバテ・シェバを見てしまいました。そして、ダビデは彼女を城に招き関係を持ってしまいました。また、彼女が身ごもったのを知ると、夫のウリヤを戦場で殺すように将軍に手紙を送り、彼を戦死させバテ・シェバを自分の妻に迎え入れました。神は預言者ナタンを遣わしダビデ王の罪を責めました。この時、ダビデはナタンを殺して罪を隠ぺいすることも出来ました。しかし、ダビデは神の前に自分の罪を認めて悔い改めました。その時に造られたのが詩篇51篇の詩です。サムエル記第二12章13節14節「ダビデはナタンに言った。『私は主の前に罪ある者です。』ナタンはダビデに言った。『主も、あなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない。しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起させたので、あなたに生まれる息子は必ず死ぬ。』」ダビデは病気になったその子のために断食して祈りましたが、その子は亡くなりました。しかし、後にバテ・シェバはもう一人の子を産みました。ダビデはその子を愛しソロモン(平和)と名を付け、自分の後継者としたのです。

3、イスカリオテのユダとペテロの場合

イスカリオテのユダは12使徒の一人で、弟子たちの金を預かるほど信用を得ていました。しかし、そのイスカリオテのユダが祭司長たちと銀貨三十枚でイエスを裏切ると契約を結んだのです。イスカリオテのユダはイエスが死刑の判決を受けるとは考えていませんでした。それゆえ、マタイの福音書27章3節4節「そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して言った。『私は無実の人の血を売って罪を犯しました。』しかし、彼らは言った。『われわれの知った子とか。自分で始末することだ。』」5節「そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。」とあります。彼は自分の罪を認めましたが、神の前に立つことなく、自分で自分のいのちを絶ってしまいました。

イエス・キリストは弟子たちに自分が捕らえられると、弟子たちが自分一人を残して逃げ去ることを預言しました。それを聞いたペテロはマタイの福音書26章33節「すると、ペテロがイエスに答えた。『たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。』」34節「イエスは彼に言われた。『まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。』」35節「ペテロは言った。『たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。』弟子たちはみな同じように言った。」とありますしかし、実際にイエスが捕らえられると、弟子たちはイエスを残して逃げて行ってしまいました。ペテロはイエスを心配して裁判の場に向かいますが、女中に声を掛けられて、イエスが言われたように、イエスを知らないと三度も言ってしまいました。26章の75節でペテロは外に出て行って激しく泣いたとあります。ヨハネの福音書21章で復活したイエスが弟子たちに姿を現してくださいました。そこで、イエスはペテロに言われました。15節「イエスはシモン・ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。』」ペテロは答えた。『はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。』イエスは彼に言われた。『わたしの子羊を飼いなさい。』16節「イエスは再び彼に『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか』と言われた。ペテロは答えた。『はい、主よ。私があなたを愛していることはあなたがご存じです。』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を牧しなさい。』」17節「イエスは三度目もペテロに、『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか』と言われた。ペテロは、イエスが三度目も『あなたはわたしを愛していますか』と言われたので、心を痛めてイエスに言った。『主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。』イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」これはイエスのペテロに対する赦しのことばです。ペテロはこのイエスの三度の声掛けによって、自分の罪が赦されたことを知り、弟子として一歩踏み出すことができたのです。イスカリオテのユダは自分の罪は認めましたが、神の前に立つことができませんでした。悔い改めるとは、自分の罪を認めてすべてを神に委ねることです。神は義なる神であると共に愛と赦しの神です。それを知らなければ、私たちは神の前に出ることは出来ないのです。