罪の赦しと悔い改めの人生

ヨシュア記7章1節~5節

成功から学ぶよりも、失敗から学ぶことの方が多いとと言われます。誰でも、失敗を喜んでする人はいません。しかし、私たちの人生の中で、失敗のない人生とはあり得るでしょうか。どんな人も、一度や二度は失敗を経験しているのではないでしょうか。失敗を通して大きくなるということも言われます。失敗を失敗で終わらせるか、それとも、失敗を生かして大きくなるかは、その後のその人の考えと行動によります。

ヨシュア記の3章で、イスラエルの民が、神の奇蹟によってヨルダン川を渡るお話をしました。次に、イスラエルの民がなさなければならないことが、エリコの町を攻略すことでした。エリコの町は城壁に囲まれた堅固な町で、簡単に攻略すことのできる町ではありません。そこで、神はヨシュアにこのように言われました。6章2節~5節「見よ。わたしはエリコとその王、勇士たちをあなたの手に渡した。あなたがた戦士はみな町の周りを回れ、町の周囲を一周せよ。六日間そのようにせよ。七人の祭司たちは七つの御羊の角笛を手にして、箱の前を進め、七日目には、あなたがたは七回、町の周りを回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らせ、祭司たちが御羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたら、民はみな大声でときの声をあげよ。そうすれば町の城壁は崩れ落ちる。民はそれぞれ、まっすぐに攻め上れ。」この時も神は、どうして城壁が崩れるのかその説明をヨシュアには教えていません。ただ、ヨシュアに与えられた命令は、神のことばに従って行うだけです。ヨシュアに神への信頼がなければ行うことはできなかったでしょう。ここで目に付くのが七と言う数字です。「七人の祭司」「七つの御羊の角笛」「七日目」「七回」聖書において「七」と言う数字は特別な意味があります。旧約聖書の創世記2章において、神は六日間ですべてを創造され、七日目に休まれたとあります。創世記2章3節「神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからです。」このことばからユダヤ教では七日目を「安息日」と定めています。「七」は神の祝福を表す数字とされています。また「ラッキーセブン」のことばの由来とも言われています。

もう一つ、神はヨシュアに戦利品(聖絶された物)に手を出さないように命じました。ところが、この約束はアカンによって破られ、イスラエルの民は大きな被害を受けることになります。イスラエルの民は神の約束の言葉を信じて、エリコの城壁の周りを歩き、七日目には七回歩いて、角笛を鳴らし、ときのこえをあげました。すると、神の約束通り城壁は崩れ去り、簡単にエリコの町を占領することができました。ところが、人の見ていないところで、アカンは金の延べ棒に心奪われ、それを地に隠してしまいました。次にヨシュアたちが戦いを挑んだのがアイという町でした。アイはエリコに近い町で、エリコよりも小さなまちでした。ヨシュアは前回のように、偵察隊を向かわせました。彼らは帰って来てこのようにヨシュアに報告しました。ヨシュア記7章3節「民をみな上って行かせるには及びません。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを打たせるとよいでしょう。かれらはわずかですから、民をみな送って骨折らせるには及びません。」そこで、ヨシュアたちは三千人を向かわせますが、大敗北を期し、イスラエルの民は戦意を失ってしまいました。ここで、ヨシュアと長老たちは悔い改めて神に祈りました。神は、この敗北の原因がアカンにあり、彼が聖絶の物を自分の物にしたことが明らかにされました。アカンは石を投げられ殺され、イスラエルの民はもう一度、アイとの戦に臨んだのです。ヨシュアたちは神のことばに従い、伏兵を置き、アイの人々が町から出てきた後、挟み撃ちで彼らを打ち滅ぼしました。

確かに、初めの戦の敗北は、アカンの罪によるものでした。しかし、イスラエルの民がエリコの町を滅ぼしたことによる、慢心も見逃すことはできません。アイの町はエリコの町よりも小さく、三千人で勝てると彼らは簡単に考えたのです。成功や勝利の後に失敗する人が多くいます。それは、気のゆるみもあるでしょうが、高慢になって、自分の力を課題に評価し、相手の力を小さく見てしまうところにもあります。イスラエルの民は明らかに、自分たちの力を誇り、少人数でも相手に勝てると高慢になったのです。しかし、アカンの罪のゆえに神の助けはなく、イスラエルの民は簡単にアイの人々に蹴散らされてしまったのです。しかし、そこでヨシュアたちは「主の箱の前で地にひれ伏して祈った」とあります。彼らはアカンの罪を取り除き、悔い改めて、もう一度、アイの町に攻め上り勝利したのです。

新約聖書に「悔い改める」と言う言葉がたくさん出て来ます。「悔い改める」という言葉はギリシャ語でメタノイアということばが使われています。聖書において「悔い改める」と言う意味は、自分の罪を認めるだけではなく、方向を変えると言う意味も含まれています。新約聖書で、バプテスマのヨハネやイエスが宣教のはじめに、ユダヤ人たちに「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた悔い改めとは、ユダヤ人はアブラハムの子孫だから罪が無い。ユダヤ人だから天の御国に入れると言う民族意識を捨てて、自分の罪を認めなさいという意味でした。悔い改めるには、神が悔い改めを受け入れてくださると言う信仰が無くては悔い改めることはできません。イスカリオテ・ユダは最後の晩餐の時、イエスに自分を裏切る者がいると言われても、悔い改めることなく、イエスを裏切ってしまいました。また、イエスが死刑の判決を受けたことを知ると、彼は自分の犯した罪の重さゆえに自ら自分のいのちを絶ってしまいました。イエスを裏切ったと言う意味では、ペテロもイエスを知らないと三度もイエスの弟子であることを否定してしまいました。しかし、彼は復活したイエスと出会い、あなたはわたしを愛しますかという言葉を通して、イエスの赦しを受け入れ、悔い改めて新しい人生を歩み始めたのです。

マタイによる福音書18章でペテロはイエスに21節「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度赦すべきでしょうか七回まででしょうか。」と尋ねました。イエスは彼に言われました。22節「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。」と言われました。これは、回数の問題ではなく、何度でも赦しなさいと言われたのです。また、なぜ私たちが人を赦さなければならないかは、次のたとえ話に説明されています。私たちは神に大きな罪を赦された者です。それゆえ、私たちも私たちに罪を犯す者を赦しなさいという意味です。しかし、私たちは人の罪を赦せない者です。七回を七十倍にするほどなど、できる者ではありません。しかし、人にはできなくても神にはできないことはありません。神こそ、私たちが罪を犯しても、悔い改めるなら何度でも赦してくださるお方です。だからこそ、私たちは神を恐れることなく、神の前に悔い改めることができるのです。イスラエルの歴史は、神への不従順の歴史です。それでも、神はイスラエルの民を退けませんでした。確かに、一度は、北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、南ユダ王国はバビロニアに滅ぼされました。しかし、その七十年後、神の約束通り、彼らは国を再建することができました。また、彼らは、神の子イエス・キリストを十字架に付けて殺しましたが、それでも、イスラエルの民に対する神の愛は変わりません。救いは、ユダヤ人から異邦人に移りましたが、聖書は、最後にユダヤ人も救われることが約束されています。神は深い愛と忍耐を持ったお方です。それゆえ、今も、救われる人のために、終わりの時を待っておられます。私たちはそのような神だからこそ、神を信頼し、従うことができるのです。私たちの力や知識によらず、神の愛ゆえに、私たちは、失敗しても、悔い改めて、神に祈り、人生をやり直すことができるのです。