ルカの福音書5章12節~26節
ルカの福音書5章12節から16節にツァラアト(重い皮膚病)の癒しの話し。17節から26節に中風の人の癒しの話しが続いています。この二つの病の癒しの話しは繋がっていて、その中心は「罪の赦し」です。ツァラアトという病は旧約聖書の古い時代からありました。またその病はイスラエルの民にとって、神に罪を犯した人が罰として神から与えられる病と考えられていました。例を上げると、モーセの姉ミリアムやエリシャの従者ゲハジなどです。また、旧約聖書のレビ記13章14章にはツァラアトについて詳しく書かれています。ツァラアトに冒された人は、祭司に患部見せなければなりませんでした。また、その病が癒された場合も、祭司によって清いと宣言されなければ、公に社会復帰できないことになっていました。そのことが分からないと、この出来事の本当の意味を理解することが出来ません。
1、ツァラアトの癒し
ルカの福音書5章12節「さて、イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。『主よ。お心一つで私をきよくすることがおできになります。』」このツァラアトに冒された人は、イエスの働きをうわさで知り、イエス・キリストならこの病も癒すことができると信じて、イエスに病の癒しをお願いしたのです。また、彼はイエスに対して「私をきよくすることができる」と言っています。ツァラアトは神に罪を犯して与えられた病ですから、神によって罪が赦されなければ癒されない病です。それゆえ彼は、「いやされる」ではなく「きよくすることができる」と言い、イエス・キリストには神と同等の権威、人の罪を赦す権威があると信仰を告白しているのです。13節「イエスは手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えた。」14節「イエスは彼にこう命じられた。『だれにも話してはいけない。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたように、あなたのきよめのささげ物をしなさい。』」この時のイエスの立場は、祭司や律法学者から神から遣わされた預言者とも律法の教師とも認められていませんでした。それゆえ、彼が公に社会復帰するためには、祭司にツァラアトが癒された患部を見せて、きよいと宣言を受けさせる必要があったのです。そして、ユダヤ教の戒めに従って神にささげ物をするように命じられたのです。15節「しかし、イエスのうわさはますます広がり、大勢の群衆が話を聞くために、また病気を癒してもらうために集まって来た。」とあります。このような事があって、次の中風の人の癒しに繋がります。
2、中風の癒し
17節「ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人たちと律法の教師たちが、そこに座っていた。彼らはガリラヤとユダヤのすべての村やエルサレムから来ていた。イエスは主の御力によって、病気を治しておられた。」とあります。イエスのうわさを聞いて多くの人々がイエスの周りに集まってきました。その中には、パリサイ人、律法の教師たちもいました。彼らはイエス・キリストを訴えるために、イエスの行動や言動を見張っていたのです。そこに、中風の人が寝たまま床に乗せられてイエスの所に運ばれてきました。20節「イエスは彼らの信仰を見て、『友よ、あなたの罪は赦された』と言われた。」とあります。「中風」とは、脳の障害で体が麻痺した病と考えられます。この病も当時は原因が分からず、ツァラアトと同じで、神に罪を犯した者が神から罰をあたえられた病と考えられていました。それゆえ、この病を治すためには、罪が赦されなければならないと考えられていました。イエスは彼らの信仰を見て、「あなたの罪は赦された」と宣言されました。しかし、その事で問題が起こりました。21節「ところが、律法学者たち、パリサイ人たちはあれこれ考え始めた。『神への冒涜を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。』」神おひとりのほかに誰も人の罪を赦すことができないという考えは、律法学者たちもイエスも同じ考えでした。そこで、問題となるのは、では、「イエスとは誰か」という事です。人間が神に変わって、「あなたの罪は赦された」と宣言することは、神を冒涜する行為です。しかし、イエスは神の子であり、神と同等の権威をお持ちの方です。それゆえ、イエスは彼らに言いました。22節~25節イエスは彼らがあれこれ考えているのを見抜いて、言われた。「あなたがたは心の中で何を考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るためにー。」そう言って、中風の人に言われた。『あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。』すると彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行った。とあります。口先だけで「あなたの罪は赦された」言う事は簡単なことです。しかし、「起きて歩け」言って、彼が立ち上がれなければ、イエスに人の罪を赦す権威が無いことを証明してしまいます。それゆえ、イエスは自分の権威を示すために、彼に「起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい」と言われたのです。すると、彼の病が癒され立ち上がって、床を担いで家に帰ったのです。それを通して、イエスが地上で人の罪を赦す権威がある事が証明されました。26節「人々はみな非常に驚き、神をあがめた。また、恐れに満たされて言った『私たちは今日、驚くべきことを見た。』」
今日の出来事の中心は、「イエス・キリストは誰か」という事です。イエスは説教を通して、また、奇蹟を通して、ご自身が神の子、神と同等の権威が与えられた者であることを証明しました。それを通して、多くの者たちがイエスの権威を認めました。しかし、祭司や律法学者たちは、イエスの権威を認めようとはせず、悪霊の働きと受け取り、イエスを迫害し、最後は、イエスを神を冒涜した罪で十字架に付けて殺してしまったのです。現代でも、イスラム教ではイエス・キリストを預言者と認めています。また、ユダヤ教では律法の教師とは認めています。しかし、イエスが預言者や律法の教師では、私たちの罪の問題は解決しません。神の子であるイエス・キリストだから、死よりの復活があり、罪の赦しが完成されたのです。しかし、そのために、神の子、イエス・キリストがあの十字架の苦しみを受けなければなりませんでした。キリスト教から十字架を除いてしまったら、ただの道徳になってしまいます。キリスト教の中心は、イエスキリストが神の子であることを信じることです。そこから、私たちの罪の赦しと永遠のいのちと天の御国に招かれる約束へと繋がるのです。病の癒しのために祈ることは大切な事ですが、病の癒しがすべてではありません。私たちのゴールは、天の御国に入ることです。ご利益宗教や病の癒しを強調するグループは信仰深く見えて、実は神の御心より自分の願いを優先しているだけです。全ての人は死から逃れることはできません。死は等しく人に訪れます。大切な事は、死んだ後、私たちはどうなるかです。イエス・キリストを救い主と信じる者の罪は、イエスの十字架の死によって罪赦され天の御国に招かれる者となります。それこそがクリスチャンの希望であり、真の喜びなのです。