「罪赦された二人の女性」ヨハネの福音書8章1節~11節
ヨハネの福音書8章には、有名な姦淫の現場で捕らえられた女性の話が記されています。この場面で、私たちは三つの違った立場の人間の姿を見ます。
1、 罪人を裁く律法学者とパリサイ人たち。
律法学者、パリサイ人たちは、ユダヤ教の指導者で、彼らは律法(旧約聖書)を研究し、自ら律法を守り、人々にも律法を守るように指導する人々でした。それゆえ、彼らは自分達こそ正しい人間で、律法を守れない貧しい人々や、ユダヤ人以外の民族異邦人は、罪人で汚れており、律法学者たちは、彼らに近づこうともしませんでした。また、律法学者やパリサイ人たちは、自分こそ神に近い存在で、律法を守れない貧しい人々や異邦人を神に呪われた人々と呼び、蔑んでいたのです。そのような状況で、イエス様だけは、貧しい人々に近づき、神様の恵みについて人々に説教しました。人々はイエス様のお話を喜んで聞き、大勢の貧しい人々がイエス様のお話を聞くために集まりました。それを見た、律法学者パリサイ人たちは、イエス様に危機感を覚え、イエス様をこの地上から抹殺しなければ、自分たちが守る神様の教えがだめになってしまうと考え、イエス様を公に訴える切っ掛けを探していたのです。
ここで彼らは、イエス様を訴える格好の獲物を得ました。一人の女性が姦淫の現場で捕らえられたのです。当時、ユダヤの国では、姦淫の罪は大きく、死刑と定められていました。しかも、それは群衆が姦淫で捕らえられた者に石を投げつけて殺すという残酷な刑罰でした。律法学者パリサイ人たちは、彼女をイエス様の前に連れてきて、「あなたは何といいますか。」と問いかけました。その意味は、あなたならどう裁きますかと言う意味です。この場面で、イエス様の答えは二つしかありませんでした。
(1) ユダヤ教の律法に従って死刑にしなさいという答え。
もし、イエス様がそのように言ったならば、ユダヤの国はローマ政府に支配されており、ローマ政府はユダヤ人に勝手に人を死刑にする権限を与えていませんでした。それゆえ、イエス様が彼女に死刑の宣告をするなら、律法学者パリサイ人たちは、イエス・キリストはローマの法律を守らない者として、反逆罪でローマ政府に訴える考えでした。
(2) 彼女の罪を赦すと答えた場合。
律法学者パリサイ人たちは、イエス・キリストは神様の戒めを守らない罪人として、ユダヤ教の裁判に掛けて、死刑の判決を下すつもりでした。
どちらの答えを答えても、イエス様には不利な状況を招いてしまいます。律法学者パリサイ人たちは、あえて、イエス様を正式な裁判で裁いて死刑にしたかったのです。
イエス様はこの不利な状況の中で、第三番目の答えを持っていました。イエス様は群衆に対して、7節「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石をなげなさい。」と言われたのです。律法学者パリサイ人たちは、自分達には罪はないと主張していました。
2、 自分の罪に気付かない群衆。
群衆は、イエス様が7節のことばを言うまで、自分の罪に気が付いていませんでした。
それどころか、姦淫で捕らえられた女性に対して、彼女は姦淫という罪を犯したのだから石を投げつけられて死刑の刑罰を受けて当然だと考えていたのです。しかし、イエス様のことばが一人一人の心を貫いたのです。彼らは初めて自分も罪人であることを覚え、彼女を石打の刑で殺そうとした自分の姿を恥じたのです。そして、年長者から始めて、一人ひとりその場を立ち去ったとあります。人間は人の罪には敏感でも、自分の罪には鈍感なものです。私たちは神様のことばによってはじめて自分の罪の大きさに気付かされるのです。
3、 姦淫の現場で捕らえられた女性。
彼女は姦淫の現場で捕らえられ、イエス様を罪に定めるために、群衆の前に引き出された者です。彼女も姦淫の罪で捕らえられれば、石を投げられて殺されることは知っていたでしょう。彼女はイエス様の前で震えおののき、死刑の判決を怖れを持って待つ身でした。ここに神様の前に自分の罪が表され、神様の裁きを待つ人間の姿があります。ところがイエス様は彼女に死刑の判決を下しませんでした。イエス様が言われたのは、罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさいという言葉でした。群衆はそれを聞くと一人去り、二人去り、最終的にイエス様以外は誰もいなくなってしまったのです。彼女を罪に定める人は誰もいませんでした。ここに、人は誰も人を罪に定めることも、罪を赦すこともできない者であることが明らかにされました。イエス様だけが罪のない人として、彼女を裁くことができる唯一の人でした。しかし、イエス様は彼女を罪に定めませんでした。そして彼女に言われました。11節「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」イエス様は彼女を罪に定めないで、新しい人生を歩むチャンスを与えられたのです。これは、神様が私たちの罪を赦し、クリスチャンとして、新しい人生を与えてくださったことと同じことです。
もう一人のイエス様に罪を赦していただいた女性は、ルカの福音書7章36節に登場します。ここに登場するパリサイ人はイエス様を尊敬して招いたのではないようです。彼はイエス様に対して主人が客をもてなす、足を洗うための水さえ出しませんでした。ここに一人の罪深いと言われる女性がいました。罪深いと言われるということは、彼女は生活のために体を売って生活する遊女であったと思われます。その彼女がイエス様がこのパリサイ人の家に招かれた聞いて、高価な香油の入った石膏の壺を持って入ってきました。そして彼女は泣きながら、イエス様の足を涙で濡らし、髪の毛でぬぐい、口づけして香油を塗ったとあります。イエス様を招いたパリサイ人には異様な光景に見えたでしょう。彼はこの光景を見て、イエス様が本当の預言者であるなら、自分に香油を塗る女が罪深い女であることを見抜くはずだと考えました。そして、その女を遠ざけるはずだと考えたのです。ところがイエス様はこのパリサイ人に一つの質問をしました。ある金貸しから一人は五百デナリ、一人は五十デナリ借りていて、二人とも借金を返せなかったので金貸しは二人とも借金を赦してやった。二人のうちどちらが金貸しを愛するかという問いかけです。パリサイ人は多く赦してもらった方だと答えました。ここでイエス様は彼に、罪深いと言われる女が自分に対してなぜ、香油を塗り、涙で足を濡らし髪の毛で拭ったのかその理由を言われました。それは、彼女が罪を赦された感謝の表れであると言われたのです。聖書には、イエス様と彼女がどのように出会い、彼女の罪が赦されたのかは記されていません。しかし、この以前にイエス様とこの女性は出会い、彼女は自分の罪が赦されたことを感謝して、自分のできる最大の感謝の気持ちを表したのです。それゆえ、イエス様は、彼女に「あなたの罪は赦されています。」とあえて公の場で宣言されたのです。また、群衆はこのイエス様のことばを聞いて心の中で言いました。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」ユダヤ人たちは人の罪を赦すのは神様だけと信じていました。それゆえ、人々はイエス様のことばに不安を覚えたのです。
私たちの罪を赦すことができるのは、神でありながら人となられたイエス様だけです。そのイエス様が十字架の上でご自身のいのちを犠牲にされました。私たちはこの神のいのちのゆえに罪が赦されたのです。多くの罪を赦された者は多く愛するとイエス様は言われました。姦淫の現場で捕らえられた女性、罪深いと町中で言われる女性。この二人の人はイエス様と出会って新しい人生を選んだ人々です。神様は私たちにも新しい人生を与えて下しました。ここに、神様を愛して歩む、私たちの新しい人生が示されているのです。