「老夫婦に与えられた神様の恵み」ルカの福音書1章5節~20節
旧約聖書と新約聖書の間には400年という長い時間が費やされています。その400年の時代を中時代と呼びます。紀元前585年に南ユダ王国はバビロニヤによって滅ぼされました。そして、神殿も破壊され、貴族や多くの技術者はバビロニヤに捕囚として連れて行かれました。それから70年して捕囚は赦され南ユダの人々は国に帰り、ユダヤの国を再建しました。ユダヤの人々は捕囚の間、神殿礼拝の代わりに会堂を建て、そこで礼拝を始めました。その後、彼らは捕囚が赦され神殿を再建しましたが、礼拝の中心は会堂での礼拝でした。彼らは、自分たちの国が滅ぼされたのは、神様の戒めを守らなかったからだと反省し、旧約聖書を研究し神のことばに従う信仰へと導かれたのです。その後、世界の支配は、バビロニヤからペルシャへ、そして、ギリシャと続きローマ政府が世界を支配するようになりました。ローマ政府は各国の宗教には寛容で、自分たちの神々を強制しませんでした。それゆえ、ユダヤの国では、祭司とローマ政府は親しい関係にありました。その祭司達の姿勢に反対したのがパリサイ人たちです。彼らは、旧約聖書を研究し会堂で民衆を教えました。パリサイとは「分離する」と言う意味で、ローマの豊かな生活から分離し、神様の戒めを中心として生きるべきだと人々に教えたのです。民衆はパリサイ人を支持し尊敬しました。当時、ユダヤの国はローマ政府から自治権が認められ、彼らはサンヘドリンと言う議会を中心に国を運営していました。その議員の半数はパリサイ派で、もう半分はサドカイ派によって占められていました。先程の祭司たちはサドカイ派に属し、ローマ政府と協力を深める政策を主張していたのです。
ルカは、イエス様の誕生の前に、バプテスマのヨハネの誕生について詳しく説明しています。旧約聖書には救い主の前に、エリヤのような偉大な預言者が登場することが教えられていました。その偉大な預言者こそ、バプテスマのヨハネでした。祭司であるザカリヤとエリサベツには子供がいませんでした。聖書は、エリサベツは不妊の女だったと記されています。当時、女性の祝福はたくさんこどもを生むことでした。それゆえ、子を産めない不妊の女性は肩身が狭く、不幸な女性と見られていたのです。また、当時は、子供のいない家庭を不幸な家庭、神様に呪われた家庭とさえ見られていました。ザカリヤは祭司という神に仕える仕事をしていましたが、子が生まれないために肩身の狭い思いをしていたのです。本来なら、神様に一番祝福される祭司が、子が生まれないために不幸な家庭、神に見放された家庭と見られていたのです。しかも、二人は歳を取り子を産む希望さえ失っていました。そんな二人に神様の特別な恵みが与えられたのです。
ザカリヤが祭司の仕事をしている時、突然、御使いが現れ、13節14節「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなりたのしみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。」と言われたのです。そして、その子はただの子ではなく、15節~17節「彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」と言われたのです。それを聞いたザカリヤは喜んだでしょうか。ザカリヤは御使いに言いました。18節「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も歳を取っております。」ザカリヤは御使いのことばを信じることができず、しるしを求めたのです。御使いはザカリヤに言いました。19節20節「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばをその時が来れば実現します。」ザカリヤは御使いの言ったとおり、おしになってしまいました。
かつて、旧約聖書の創世記で、アブラハムとサラも彼が99歳、サラ89歳の時に、主の使いが現れ、来年の今頃、あなた方に男の子が生まれると言われました。それを聞いた二人は、二人とも、主の使いのことばを信じることができず、笑ったと記されています。そして、生まれた子供にイサク(笑う)と言う名をつけるように主の使いに言われたのです。次の年、主の使いが言われたように、100歳のアブラハム、90歳のサラに男の子が生まれ、二人はその子にイサクと言う名をつけたのです。ザカリヤもアブラハムとサラと同じように御使いのことばを信じることができませんでした。しかし、主の使いの言われた通り、翌年、エリサベツは男の子を産み、御使いが言われたようにヨハネという名をつけたのです。ヨハネは成長し荒野で叫ぶ声となり、イスラエルの人々に悔い改めてバプテスマを受けるように訴えました。バプテスマ(洗礼)は彼から始められたものではありません。ユダヤ教の教えの中に、異邦人(ユダヤ人以外の国民)がユダヤ教に改宗する場合、今までの汚れを取り除くために、洗礼を受けるように教えられていました。しかし、バプテスマのヨハネは、異邦人だけではなく、全てのユダヤ人にも罪があるので、身を清めるために洗礼を受けるように教えたのです。そのことは、ユダヤ教の指導者には受け入れられない儀式でした。なぜなら、彼らは、ユダヤ人は神様に選ばれた清い民であると信じていたからです。しかし、群衆はバプテスマのヨハネのことばに心刺され、多くの者がバプテスマのヨハネの前に集まり、彼から洗礼を受けたのです。実は、そのことが旧約聖書の預言の成就でした。バプテスマのヨハネは悔い改めによって、神の前に整えられた魂を準備し、救い主の来られる道を整える働きとなったからです。
クリスマスは、神様の恵みの到来を知らせる喜びの時です。神様は私たちの救いのために、ひとり子イエス様を人として、私たちのもとに遣わせてくださいました。ザカリヤとエリサベツは子が生まれないということで苦しんでいました。二人はこのことを神様に祈ってきたことでしょう。しかし、その祈りは、何年もたつうちに、むなしい祈りとなってしまいました。なぜなら、二人は、歳を取り、子を産むことが不可能になってしまったからです。それで、せっかく御使いが来て、喜びの知らせを伝えられても、二人は信じることができなかったのです。イエス・キリストの誕生もそうです。イエス・キリストは私たちを罪から救うために生まれました。しかし、私たちが自分の罪を認めないなら、イエス・キリストの誕生を心から喜ぶことができません。なぜなら、その人にとってイエス・キリストの誕生は喜びの知らせではないからです。イエス・キリストの誕生、それは、私たちに天国の喜びを伝える知らせです。私たちにとって、イエス・キリストの誕生はどういう意味があるでしょうか。今年のアドベントはそのことを深く考えたいと思います。