耐え忍んだ人たちは幸いである

「耐え忍んだ人たちは幸いである」ヤコブの手紙5章7節~11節

甲子園も終わりました。選手たちの一生懸命にプレーをする姿を見て励まされました。甲子園に出場するために選手たちはどんなにつらい練習に耐えてきたことでしょう。学校のクラブ活動で学ぶことは技術的なことだけではありません。精神的な強さを学ぶことも大事な事です。選手たちが大人になり社会に出て、様々な苦しみにあった時、クラブ活動で苦しみを乗り越えたことが力になります。あの苦しい練習に耐えることができたのだから今度も大丈夫という、精神的な強さが苦しみを乗り越える力となるのです。

そのような苦しい練習に耐えるためには指導して下さる先生との信頼関係が大切です。先生は決して自分たちを苦しめるためにいじめているのではなく、自分たちが強くなり優勝させるために、訓練をしてくださっているのだという指導者と生徒との信頼関係です。指導して下さる先生は自分で走るわけではありません。グランド10周と言われて走るのは生徒です。時に、遅れた5人は罰として腕立て百回などと言われることもります。何でこんな苦しみに耐えなければならないのかと不平を言ってやめる人もいます。しかし、実はそのような苦しみを乗り越えて強くなることを指導者は知っているのです。以前、バレーボールで優勝したお話しをしました。翌日の練習のお昼に、先生が一人一人にカツ丼をおごってくれました。実は、試合前に優勝したらカツ丼をおごるという約束を先生としていたのです。先生もまさか優勝すると思っていなかったのか、優勝したらカツ丼をおごると簡単に約束してくださいました。そして私たちが創立以来初めて市の大会で優勝したので約束通り先生がカツ丼を一人一人におごってくださったのです。そのように、指導者と生徒の信頼関係が大切です。そのことは、神様と私たちとの信頼関係も同じことが言えるのです。

私たちは、神様を信じていても苦しみにあいます。ご利益宗教では、祝福のことばしかいいません。この神様を信じたらどんな病気でも治るとか、商売がうまく行く。幸せな結婚ができるなど。キリスト教はそうではありません。神様を信じていても病気はするし、苦しみにもあいます。それでも、聖書が私たちに教えることは、病や苦しみに耐える力が神様から与えられるということです。11節にヨブの忍耐について教えています。ヨブは神様に信頼される正しい人でした。しかし、その彼が、突然、家族を失い、財産を失いました。また、健康をも失い体中はれものができて、かゆみで苦しみ、そこから出るにおいで、周りの人々からも嫌われました。また、彼を慰めるために集まった友人からも、彼らのことばによって苦しめられました。誰からも助けられず、一人で苦しむヨブに、最後、神様が手を差し伸べられ、ヨブはもう一度、神様との親しい信頼関係を取り戻したのです。この苦しみを通してヨブの神様への信頼は深まりました。11節の後半に「主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」とあります。神様はどれほど私たちを愛しておられるお方でしょうか。神様は私たちを罪より救うために、ひとり子イエス様を十字架に付けられました。罪を犯したのは私たち人間です。その罪を犯した人間を助けるために自分のひとり子を犠牲にされたのです。私たちの常識では考えられないことです。また、イエス様も十字架に付けられて殺される前に何度でも逃げる機会はありました。しかし、私たちの身代わりとして死ぬために父なる神様のご計画に従われたのです。これが、神様の慈愛です。それほど、私たちを愛しておられる神様が何の計画もなく私たちに苦しみを与えるわけがありません。

苦しみには意味があります。例えば、山に昇らなければ山の美しさを知ることはできません。それと同じように、私たちは苦しみを通らなければ謙遜ということを学ぶことはできません。旧約聖書で、イスラエルの国で最初に王に選ばれたサウルは、苦しみもなく簡単に王に就任しました。始め彼は神様に従いますが、次第に高慢になり神様に退けられてしまいました。それとは反対に、二番目の王に就任したダビデは、サウル王に命を狙われ、彼から逃げるために大変な苦労をしました。しかし、そのため、彼は神様に信頼することを学び、後にイスラエルの国で偉大な王と呼ばれる者になったのです。苦しみにあった時、神様を呪うことも、神様から離れることもできます。しかし、苦しみの時ほど神様と一対一になるチャンスです。新約聖書に登場するパウロは神様に用いられた有名なひとです。しかし、彼にも苦しみがありました。彼はそのためにその苦しみを取り除いてもらうために三度、神様に祈ったとあります。しかし、その祈りは聞かれませんでした。そして、神様は彼にその理由を告げました。それは、彼がこの苦しみを通して自分の弱さを知るためであり、神様の力は弱さの内に働くことを学ばさせるためだと教えられたのです。そこで、パウロは、自分の強さを誇るものではなく、自分の弱さを誇ると宣言しました。

苦しみには様々な意味があります。この世に、意味の無い苦しみなど存在しません。私たちが苦しみにあった時、それは、神様と一対一になるチャンスです。そして、パウロのように自分の気持を神様に正直に告白することです。また、その時、神様が如何に私たちを愛しておられるかを確認することが大切です。そのために聖書があります。旧約聖書でモーセはどんな苦しみの中にいたでしょうか。そして、神様はどうやって彼を助け強めたでしょうか。そのことを学ぶことはとても大切なことです。モーセだけではなく、アブラハム、ヤコブ、ヨセフ。みんな苦しみの時を通りました。また、ヤコブ書は主が来られるまで耐え忍びなさいとも教えています。私たちはこの地上だけで生きる者ではありません。主イエス様が再臨した時、私たちは天の御国に招かれ、永遠に神と暮らすという希望が与えられています。その天の御国を覚えて耐え忍びなさいとヤコブは私たちに教えているのです。