自分の十字架を負って歩む人生

「自分の十字架を負って歩む人生」マタイの福音書10章24節~39節

先週、箱根駅伝が行われ、青山学院大学が圧勝しました。駅伝というのは日本特有の競技で、外国ではあまり見られないと聞きました。本来、マラソンは42.195㎞を一人で走る競技ですが、駅伝のように何人かで協力して、区間を担当し、タスキを渡して走るというのもおもしろい競技です。最初の区間を誰が走るのか、アンカーは誰にするのか、また、地形によっても上り坂、下り坂などがあり、選手の選び方によって成績が変わることがあります。また、マラソンのルーツは、戦争で勝利を走って伝えたことがきっかけだと言われています。ギリシャ語では、ユーアンゲリオンという言葉が使われ、聖書ではその言葉を「福音」と訳しています。私たちは、福音という言葉を使いますが、その意味は、良い知らせを伝えるという意味が含まれているのです。

福音とは、罪人が神の子イエス様を信じることによって、その罪が赦され、天の御国に招かれるという良い知らせのことです。しかし、全てが良いことばかりではありません。先ほどお読みしました、マタイの福音書10章34節でイエス様は、「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」と言われました。剣とは争いを意味します。つまり、イエス様は地上に争いを起こすために来られたと言われたのです。その争いとは、35節「なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。」家族の中に争いを起こさせるために来たと言われたのです。普通考えるなら、平和のためとか家族の幸せのために来たというのであればわかりますが、イエス様ははっきりと、家族の間に争いを起こすために来たと言われたのです。その理由が37節に記されています。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」つまり、イエス様を第一としなければイエス様の弟子になることはできないという意味です。父や母を大切に思うことは大事なことですが、イエス・キリストよりも家族を大事にしてはいけないという意味です。その結果、家族の中に争いが起こると言われたのです。さらにイエス様は言われました。38節39節「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしいものではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」「自分の十字架」とは何を指しているのでしょうか。それは、神様から一人一人に与えられた使命を意味しています。ときとして、それは苦難の道を意味しています。モーセの事を考えてみましょう。モーセがイスラエルの民をエジプトから助け出し、カナンの地に導くように神様から命令を受けたのは、モーセが荒野で羊飼いをしていた80歳の時です。モーセはその命令を聞いて、「それはできません」と神様に答えています。40年前のエジプトの王宮で暮らしていた時なら、喜んで従ったかもそれません。しかし、今は何の地位も権威もない、ただの落ちぶれて年老いた羊飼いです。そんな力がどこにあるでしょうか。しかし、神様は羊飼いで80歳になったモーセに、イスラエルの民を助け出すように命じられたのです。最終的にモーセは、神様が共にいてくださるとの約束を得てエジプトに向かいました。モーセはこれまでの自分の人生について考えたことでしょう。モーセが生まれた時代、エジプトでは男の子が生まれたら、ナイル川に投げ捨てられ殺される時代でした。そんな時代に、モーセは両親に守られ、また、ナイル川の川岸にかごに入れられて置かれた時には、エジプトの王の娘がそのかごを見つけ、自分の養子として王宮に持ち帰ったのです。モーセはそこで特別な教育をうけました。また、モーセは40歳の時に、へブル人を助けるためにエジプト人を殺してしまい、それがばれるのを恐れ、荒野に逃げ、荒野で40年も暮らしたこと。モーセがエジプトの王宮で育たなければ、エジプトの王は直接モーセに会うことはなかったでしょう。また、荒野で40年、羊飼いとして生活していなければ、イスラエルの民、男性だけで六十万人をカナンの地に導くこともできなかったでしょう。一つ一つは神様の計画であり、そのために自分は生まれたことをモーセは理解したのではないでしょうか。モーセにとって神様の計画を受け入れることが、神様の使命を受けることであり、十字架を負うことだったのです。

モーセの後を受け継いだヨシュアにも同じことが言えます。ヨシュアはモーセの付き人として、荒野での40年の間、モーセと共にいました。モーセが亡くなった後、イスラエルの民を導くのはヨシュアしかいませんでした。しかし、それはヨシュアにとって苦しみでした。偉大な指導者モーセの後を誰が継ぐことができるでしょうか。それゆえ、ヨシュア記を見ると、神様が一生懸命ヨシュアを励ましているのがわかります。ヨシュアにとってモーセの後を引き継ぎ、イスラエルの民をカナンの地に導くことは困難な道です。しかし、ヨシュアもモーセと同じように自分にも神様が共におられるとの約束を得て、モーセの後継者としての使命を受けたのです。これも、ヨシュアが背負った自分の十字架なのです。

自分の十字架を負ってイエス様に付いて行くということは楽な道ではありません。また、自分の十字架を負うということは、自ら神様の使命を担って歩むということです。神様は私たちに命を与えこの地上に誕生させました。そこには、一人一人に対する神様の計画、使命があります。しかし、私たちは、それを拒んで自分の望む人生を歩むこともできます。しかし、イエス様は、私たちに十字架を負ってイエス様に付いて行くように命じられました。自分の十字架を負うということは、自ら苦難の道を選ぶということです。イエス様も自ら苦難の道を選ばれ、十字架の上でいのちをささげられました。それは、私たちを罪から救うためです。今度は、そのイエス様が、自分と同じように苦難の道を歩むように命じておられるのです。しかし、その道はただの苦しみの道ではありません。イエス様と共に歩む道です。十字架を負って歩む道は、苦難だけではなく、非難や反対、貧しさが伴う道です。また、イエス様は狭い門から入りなさいとも言われました。39節「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」「自分のいのちを自分のものとした者」とは、迫害のためにこの世と妥協した者で、その者は永遠のいのちを失います。しかし、イエス様のために迫害を受けいのちを失った者は永遠のいのちを受けるという意味です。

以前、目の見えない方と一緒に走る、伴走者の訓練を埼玉県で行われたというニュースをテレビで見ました。実際に目隠しをして、伴走者と一緒に走ることによって、目の見えない方がどのように感じておられるかを体験する学びです。目の見えない方が走るということはどんなに心細いことでしょう。目の見えない方は伴走者を信頼してはじめて安心して走ることができるのです。神様の前に、私たちも目の見えない者に等しい者です。十字架を負って歩む道は困難な道ですが、神様が共におられる道でもあります。私たちは、モーセやヨシュアのように神様に信頼して、イエス様と共に十字架を背負ってイエス様に付いて行きたいと思います。