自己中心の祈りと神中心の祈り

第一サムエル記1章1節~11節

今日、人間関係に悩んでいる人々が多くいます。仕事の人間関係。夫婦の問題。家族の問題など。私たちはそのような状況に置かれたとき、どのように対応すれば良いでしょうか。

アブラハムの妻サラは不妊の女性でした。当時、不妊の女性は神の祝福を受けられない者として、人々から低く見られていました。そこで彼女は子を得るために、自ら自分の女奴隷ハガルをアブラハムに妻として差し出しました。ハガルは自分が身ごもるとサラを見下げるようになりました。そこで、サラはどうしたでしょうか。サラがハガルをいじめたので、ハガルは逃げ出したとあります。神はハガルに現れ、アブラハムのもとに帰り身を低くするように彼女に命じました。ハガルは子を生みイシュマエルと名付けられました。それから、サラも身ごもりイサクが生まれました。ある時、イシュマエルがイサクをからかっているのを見て、サラは夫のアブラハムに、ハガルとイシュマエルを追い出すように願い出ました。アブラハムはイシュマエルも自分の子ゆえ悩みました。しかし、神がサラの言う通りにするようにアブラハムに語り、また、イシュマエルも一つの大きな国民となることを約束されました。そこで、アブラハムはハガルとイシュマエルを家から送り出したのです。

サムエル記に登場するハンナもアブラハムの妻サラと同じように不妊の女性でした。夫のエルカナはハンナを愛していましたが、子を得るためにペニンナという女性も妻に迎えていました。ペニンナには子が何人か生まれました。ペニンナは自分に子がいることで、ハンナを苛立たせたとあります。ここで、ハンナはアブラハムの妻のように、ペニンナに対抗し彼女をいじめることもできたでしょう。また、夫のエルカナは自分を愛しているので、夫からペニンナをいさめることもできたでしょう。しかし、彼女はそうしませんでした。彼女が取った方法は神様に祈ることでした。サムエル記第一1章10節11節「ハンナの心は痛んでいた。彼女は激しく泣いて、主に祈った。そして誓願を立てて言った。『万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。』」「頭にかみそりを当てません」とは、ナジル人の誓願と言われ、特別に神様にささげられた人の事をさします。(例、サムソン)ハンナはこの苦しい気持ちを神様に祈りました。ハンナの祈りは一見、自己中心な祈りに聞こえます。しかし、自分の問題を解決するだけなら、生まれた子を「主にお渡しします」と祈らなくても、男の子を与えてくださいと祈ることもできたでしょう。また、アブラハムの妻サラのように、ペニンナを追い出してくださいと祈ることも出来たでしょう。「自己中心な祈り」とは、このような祈りで、祈りの中心が自分で、自分のために神様を利用しようとする気持ちが隠されています。受験シーズンになると、息子がどこどこの大学に入学するようにお祈りくださいと言われます。確かに、こどものためではあるかもしれませんが、そこに自己中心な心が隠されています。どこの大学がその子にふさわしいのか私たちにはわかりません。それゆえ、「御心ならば」という気持ちが大切です。私たちには、その子に何が必要かわからないからです。私たちはこのような自己中心の祈りをしていないでしょうか。自分の必要のために祈ることは大切です。しかし、そこに自分のためか、だれのための祈りなのかを知る必要があります。では、ハンナの祈りはどうでしょうか。ハンナは11節「男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします」と祈っています。せっかく生まれた子を神様に渡してしまうとはどういうことでしょうか。神様の御用のために我が子を使ってくださいという祈りです。実は、この時代、祭司は存在しても、人々に対する影響力もなく、国は乱れていました。そこで神は、神にささげられた人物を必要とされていたのです。ハンナは図らずも、神の御心にかなった祈りをささげたのです。「神中心の祈り」とは、神に喜ばれる祈りの事で、御心にかなった祈りの事です。ヤコブの手紙4章2節3節「あなたがたは、欲しても自分のものにならないと、人殺しをします。熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします。自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです。」とあります。ヤコブは私たちの祈りが叶えられないのは「悪い動機で求めているからです」と言われました。また、イエスは主の祈りの中で、マタイの福音書6章10節「みこころが天で行われるように、地でもおこなわれますように」と祈るように教えています。また、十字架に掛けられる前のゲツセマネの園での祈りでも、マタイの福音書26章39節「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」42節「あなたのみこころがなりますように」と祈っています。私たちの祈りはどうでしょうか。悪い動機、自己中心な心で神に祈っていないでしょうか。聖書は、神と私たちの関係を親と子の関係で表しています。親が子の求める物を何でも与えていたら子はどうなってしまうでしょうか。自己中心で傲慢な大人に成長します。それゆえ、親はこどもに何が必要かを判断して与えます。子が親に願っても与えられないとき、子は忍耐を学びます。神は私たちの必要をご存じです。神はハンナの祈りに応えて、男の子を与えました。ハンナは神との約束を守り、その子サムエルを祭司エリに託しました。サムエルは偉大な預言者となりイスラエルの信仰の復興のために働きました。神はハンナをも顧みて下さり、ハンナはさらに三人の息子と二人の娘を産んだとあります。

神が私たちの必要をすべて知っておられるなら、なぜ、祈る必要があるのかと言った人がいます。確かに神は私たちの必要を知っておられますが、私たちは本当に自分の必要を知っているでしょうか。祈りは自分の必要を求めるだけではなく、祈りを通して神の御心を知るための祈りでもあります。そういう意味で、祈りと信仰は繋がったものです。信仰が増せば増すほど神に近づき、神の御心を知り、御心に叶った祈りをささげるようになります。私たちは常に自分の心の中を見つめ、祈りにおいて自己中心になっていないか点検する必要があります。神のためと思いながら、自分の利益を考えていないか。神のためと言いながら人を傷つけていないか。または、人を利用していないか。祈りにおいて自分の心の中を点検する必要があるのではと思います。