「苦難のしもべと栄光のメシヤ」ルカの福音書23章32節~38節
イエス・キリストのうわさは、イスラエルの国を超えて、周りの国々にも伝わるほど大きな働きになりました。先週学びました、五つのパンと二匹の魚の奇蹟は、男性だけで五千人以上の人々のお腹を満たした奇跡でしたが、あの時にイエス様のお話を聞くために集まった人々は、一万人近い人々であると思われます。それぐらい、イエス様のうわさは広まり、イエス様の行く町々で人々はイエス様のお話を聞くために、また、病人をいやしていただくために集まってきたのです。
そんなイエス様が、エルサレムの町に入られる時、エルサレム中が大騒ぎになってしまいました。マタイの福音書21章9節~11節「そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。『ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られた方に。ホサナ。いと高き所に。』こうして、イエスがエルサレムに入られると、都中がこぞって騒ぎたち、『この方は、どういう方なのか。』と言った。群衆は『この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。』と言った。」とあります。「ホサナ」とは、「救ってください」という意味で、尊敬を表す呼びかけです。エルサレムの人々はそのように喜んでイエス様を迎え入れたのです。
また、イエス様を捕らえたいと思っていた、祭司長、民の長老たちは、イエス様を捕えるために集まった時、マタイの福音書26章5節「しかし、彼らは『祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起きるといけないから。』と話していた。」とあります。ここで言われている「祭り」とは、過越しの祭りのことで、ユダヤ人の成人した男性は、この祭りの時にはエルサレムの神殿に集まって神様を礼拝しなければならないと律法に定められていました。それゆえ、この日はたくさんの人々が集まり、もし、イエス・キリストを捕らえるなら、暴動が起こるのではないかと心配して、この祭りの日は避けなければならないと相談していたのです。
ところが、実際にイエス様が捕らえられ殺されたのは、この過越しの祭りの時でした。なぜ、この祭りの日にイエス様は捕らえられ殺されたのでしょうか。一つは、神様の計画が、過越しの祭りの時に、イエス様を殺すことにあったからです。それは、過越しの祭りの由来が、イスラエルの民が子羊を殺してその血を門とかもいに塗り、神様がその血を見てその家を通り過ぎ、その家が神のさばきから救われたと言う旧約聖書の出来事に由来し、イエス・キリストが神の子羊として人々を救うために十字架で殺されたことを人々が知るためでした。もう一つの理由は、群衆がイエス様への期待を失ったからでした。群衆は、イエス様にローマ政府からユダヤの国を救い出す革命家のメシヤ(救い主)を求めていました。イエス様がエルサレムに入ることによって、イエス様が奇蹟を行いローマの軍隊をいっぺんに追い出してくれると期待したのです。しかし、イエス様はいっさいそのような働きはしませんでした。人々は、それを見てイエス様に失望し、イエス様から去って行ったのです。それを見た、祭司長、民の長老たちは、この時を逃すまいと、イエス様を捕らえて裁判にかけ、十字架につけて殺してしまったのです。
旧約聖書を学ぶと、いかにイスラエルの神様が偉大で、力ある神であるかがわかります。イスラエルの民が周りの巨大な国から攻められた時、神は大きな奇蹟を起こし、何十万という大軍を滅ぼしイスラエルの国を守られました。そのことは、一度や二度ではなく、神様は何度も大きな奇蹟を起こしてイスラエルの民を守られました。イエス様が公に登場し、たくさんの奇蹟を行いました。群衆はそれを見て、イエス様にモーセやダビデの姿を求めたのです。しかし、神様が遣わした救い主イエス・キリストはそのような栄光の姿、救い主ではありませんでした。イエス様が生まれるとき、神様はヨセフにこのように教えています。マタイの福音書1章21節「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」「イエス」とはギリシャ語の読みで、旧約聖書のヘブル語では「ヨシュア」という呼び方になります。旧約聖書のヨシュア記と同じです。神様の計画はモーセで完成したのではなく、ヨシュアによって完成されました。ヨシュアは救いの完成を表した名前なのです。
また、旧約聖書には神様が遣わす救い主について、幾つかの預言が現されています。その中で、神様は預言者イザヤにメシヤ(救い主)の姿を具体的に示されました。その中でも有名なのがイザヤ書53章の苦難のしもべの個所です。神様はこの個所でイザヤに救い主が、苦しみにあい、みじめに殺されることを告げられました。ユダヤ人たちはこの有名な個所を知ってはいましたが、誰のことを指しているのか理解できなかったのです。私たちは、新約聖書のイエス様の姿を通して、初めて、この苦難のしもべがイエス・キリストであることを理解できたのです。
確かに、神は偉大なお方です。それゆえ、ユダヤ人たちは、神が人として生まれ、人々の罪の身代わりとして、みじめに十字架で殺されたイエス・キリストを神の子、救い主と認めることはできませんでした。しかし、神は偉大なお方であると共に愛のお方でもありました。その愛は、私たちの想像以上の大きな愛で、私たち罪人が裁かれ滅びることを望まず、自ら苦しみを受け、私たちの救いのために、痛みと苦しみを負われ、十字架の上で死んでくださったほどの大きな愛です。イエス様の力なら、ローマの軍隊を追い出し、ユダヤ人が望むように王になることもできたでしょう。しかし、イエス様はそうされずに十字架の道を選ばれたのです。それは、苦難の道、苦難の姿でした。まさに、預言者イザヤに示された苦難のしもべの姿でした。パウロはこのことをピリピの教会にこのように教えました、ピリピ人への手紙2章6節~8節「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」神の子が人として生まれるとはそういうことです。また、キリストは私たちの罪の身代わりとして十字架の上で死なれました。私たちは、この神の子イエス様にどのように応えたらよいでしょうか。今週一週間、受難週をそのことを考えて過ごしましょう。