過越しの祭りとイエスの十字架の死

出エジプト記12章節~14節

聖書は旧約聖書と新約聖書二つを合わせて一つの書物です。神学校で教えられたことですが、「旧約聖書の中に新約聖書があり、新約聖書の中に旧約聖書がある」と学びました。今日、学ぶ過越しの祭りは、その事をわかりやすく表しています。過越しの祭りは、出エジプトの時代にエジプトに下る神の裁きからの救いのお話しです。それから約1500年後、新約聖書の時代に入っても過越しの祭りは守られていました。イエス・キリストを殺そうと計画していた祭司長や民の長老たちは、人々がたくさん集まる過越しの祭りのときは避けようと計画していました。それは人々が騒ぎ出すのを恐れたからです。しかし、イエス・キリストは過越しの祭りの日に十字架に付けられて殺されました。過越しの祭りこそ、神の子であるイエス・キリストが殺されなければならない時でした。なぜなら、過越しの祭りはイエス・キリストの死による救いを表していたからです。

1、過越しの祭りの起源とへブル人の救い

モーセは神の命令に従い、兄アロンと共にエジプトに赴き、神を礼拝するためにへブル人を荒野に行かせるように、エジプトの王ファラオと交渉しました。しかし、エジプトの王ファラオはモーセのことばに耳を貸しませんでした。そこでモーセはナイル川を血に変えたり、カエルの群れを大量に発生させたり、ブヨやアブを大量に発生させました。しかし、エジプトの王はモーセのことばに従いませんでした。それでも、被害が大きくなると、エジプトの王は、へブル人を行かせると約束しますが、災害が治まると約束を破りました。また、それを繰り返しました。そこで、神がエジプトに下す最後の禍(10番目の禍)がエジプトにいるすべての長子(初子)を殺すという神の裁きでした。出エジプト記11章4節~6節「主はこう言われます。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。エジプトの地の長子は、王座に着いているファラオの長子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の長子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。そして、エジプト全土にわたって大きな叫びが起こる。このようなことは、かつてなく、また二度とない。』」この神の裁きは、エジプトに住むすべての民に下される裁きでしたから、へブル人も含まれました。しかし、神はへブル人に対してモーセを通して神の裁きから救われる方法を与えられていました。それが、羊か山羊を殺しその血を門柱と鴨居に塗りなさいという命令です。出エジプト12章13節「その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。」ここで大切な事は、神はへブル人だから助けると約束したのではなく、神の約束のことばに従い、門と鴨居に羊か山羊の血を塗るならば、神はその血を見てその家を過ぎ越すと約束してくださったことです。それが、過越しの意味と起源なのです。

2、イエス・キリストの十字架の死と救い

先ほどお話ししましたように、イエスを殺そうと計画していた祭司長や民の長老たちは過越しの祭りのときはやめておこうと相談していました。マタイの福音書26章3節4節「そのころ、祭司長たちや民の長老たちはカヤパという大祭司の邸宅に集まり、イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。彼らは『祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない』と話していた。」とあります。イエスを捕らえた時に、イエスを救い主と信じる民衆による暴動が起こることを恐れたからです。イエスがエルサレムに入られるとき、人々はホサナ(救ってくださいの意味)、ホサナと言ってイエスと弟子たちを歓迎しました。それは、イエス・キリストが奇跡的な力でローマの兵隊を追い出し、ユダヤの国の独立を宣言すると期待していたからです。しかし、イエス・キリストは民衆が望むような政治的な働きはしませんでした。それゆえ、民衆はイエスから離れて行きました。また、12弟子の一人であるイスカリオテ・ユダが祭司長の所へ行き、イエスを裏切る相談をしました。そのようなこともあり、急遽、祭司長たちは過越しの祭りの時に、イエスを捕らえ、裁判で死刑の判決を下し、イエスを葬ろうとしたのです。この時、イエスと弟子たちが行った過越しの祭りの食事は特別なものでした。マタイの福音書26章26節「また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』」27節28節「また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。『みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。』」出エジプトで、過越しの祭りのとき、神の裁きからの救いの方法は羊か山羊を屠り、その血を門と鴨居に塗ることでした。神はその血を見てその家を過ぎ越すと約束してくださいました。その時の血とは、羊や山羊のいのちを表していました。しかし、羊と山羊の血(いのち)では私たちの罪の代価とはなりえませんでした。私たちの罪の代価となりえるのは、罪の無い神の子イエス・キリストの血(いのち)だけです。それゆえ、神はご自身のひとり子をこの地上に遣わし、私たちの罪の身代わりとなるために、十字架の上で、イエスのいのちを取られたのです。また、イエス・キリストは一度も罪を犯さなかったのに、私たちの罪の身代わりとなり十字架でいのちを犠牲にされました。この神の子イエス・キリストの血(いのち)によってはじめて私たちの救い(贖い)は完成されたのです。人間が努力して自分の罪の問題を解決できたなら、神はひとり子イエス・キリストを犠牲にすることはなかったでしょう。また、イエス自身も十字架でいのちを犠牲にすることはありませんでした。実際に聖書を読むなら、イエス・キリストが十字架から逃れる方法はいくらでもありました。しかし、イエス・キリストはあのゲツセマネの園での祈りによって、父(神)の御心が、人々の罪の身代わりとして、自分のいのちを犠牲にすることであると知り、自ら十字架の道を歩まれたのです。

日本人はまじめな人が多いので、自分の罪の重さに気付いていません。漠然と自分は天国に入れると信じているから、真剣に自分の救いについて考えようとはしません。本当に自分の罪の重さが分かったなら、そのまましておくことはできないでしょう。お金を払ってでも、難行苦行してでも問題を解決しようとするはずです。実際、自分の罪の重さが分からないことが問題です。この世の法律を守っているから罪はないというのは簡単です。しかし、私たちを罪に定めるのは神ご自身です。神の目(基準)を通して、罪があるか無いかです。だれが神の前に罪の無い者として立つことが出来るでしょうか。神は私たち罪人のために救いの道を備えてくださいました。それも、羊や山羊の血(いのち)によってではなく、ご自分の大事なひとり子のいのちを犠牲にしてまで。そこに神の愛が示されており、その神の愛を信じることが、新しい救いの契約を結ぶことになるのです。