過越しの祭りと新しい契約

マタイの福音書26章26節~28節

聖書は、旧約聖書と新約聖書を合わせて一つの書物です。神学校の先生が言われました。「旧約聖書の中に新約聖書があり、新約聖書の中に旧約聖書がある」今日の聖書の箇所は有名な「最後の晩餐」の場面で、聖餐式を守る大切なイエスと弟子たちの約束の場面です。ここで重要なことは、この契約が「過越しの祭り」の時に行われたということです。それゆえ、私たちが「過越しの祭り」の意味を知らなければ、本当の意味で、聖餐式の重要な意味を見落としてしまうという事です。

1、過越しの祭りについて

「過越しの祭り」の起源は、出エジプト記の12章に記されています。ヤコブの子ヨセフは兄弟たちに妬まれ、エジプトに奴隷として売られてしまいました。彼はエジプトで苦労しますが、神の助けによってエジプトの王の次の位に出世しました。そして、飢饉が起こり兄弟たちはエジプトに食べ物を求めてやって来ました。初めヨセフは兄弟たちに荒々しく対応しますが、ヨセフは神の恵みによって兄弟たちを赦し、和解することが出来ました。その後、ヤコブの家族がエジプトに移住し、イスラエルの民がエジプトで増え広がりました。

それから多くの時が経ち、ヨセフの事を知らない王が就任しました。新しい王は、エジプトでイスラエルの民が増え広がるのを怖れ、生まれた男の子をナイル川に捨てるように命じるなど、へブル人(イスラエルの民)を迫害しました。へブル人は神に助けを求めました。そんな時代に生まれたのがモーセです。しかし、モーセの両親はモーセの命を助けるために、彼をかごに入れてナイル川の岸に置くことを決心しました。そのかごを見つけたのがエジプトの王の娘でした。モーセはしばらく家族に育てられ、大きくなったときに王宮に迎えられ、王の娘の子として育てられました。

モーセが40歳になった時、へブル人を助けようとしてエジプト人を殺してしまいました。その事が王にばれるのを怖れモーセは荒野へと逃げました。モーセが荒野で羊飼いとして生活し80歳になった時、神がモーセに現れエジプトに行ってへブル人を助けるように命じました。モーセはエジプトに行き、エジプトの王と交渉しますが、王はモーセのことばに耳を傾けませんでした。そこで、モーセはエジプトに10の災害を与えました。その、最後の災害がエジプトにいるすべての初子のいのちを奪うという神の裁きでした。しかし、神はイスラエルの民に一つの約束を与えました。その約束が「羊を殺し、その血を門と鴨居に塗れ」という命令です。神はその血を見てその家を通り越すと約束されました。そして、神はイスラエルの民に言われました。出エジプト記12章14章「この日は、あなたがたにとって記念となる。あなたがたはその日を主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟として、これを祝わなければならない。」これが過越しの祭りです。この契約で大切な事は、羊を殺しその血を門と鴨居に塗るという事でした。神はその血を見てその家を通り越すと約束されました。イスラエルの民はこの神との約束を信じて、羊を屠りその血を門と鴨居に塗りました。神はその血を見て通り過ぎ、イスラエルの民の家には災害は起こりませんでした。

2、新しい契約

 マタイの福音書26章17節「さて、種なしパンの祭りの最初の日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。『過越しの食事をなさるのに、どこに用意をしましょうか。』」とあります。明らかにこの食事が「過越しの祭り」の時の食事であることが分かります。また、イエスは、この過越しの出来事とご自分がこれから十字架でいのちを犠牲にすることを重ねていることがわかります。マタイの福音書26章26節「また、『一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』』イエスが弟子たちに与えられたパンは、十字架の上でささげられるイエスの体を表しています。27節28節「また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった『みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。』」イエスが弟子たちに渡された杯の中のぶどう酒をイエスは、十字架の上で流される血に例え「多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」と言われました。

過越しの祭りについて、重要なのは羊を殺して、その血を門と鴨居に塗ることでした。それによってイスラエルの民は災害(神の怒り)から救われました、これが神との古い契約です。また、神はそのことを忘れないようにと、過越しの祭りを守るようにと命じられました。

古い契約は羊を殺しその血を門と鴨居に塗ることでした。また、彼らはその祭りを毎年繰り返さなければなりませんでした。しかし、新しい契約は、神の子のいのちが十字架で犠牲にされ、その尊い血が流されました。新しい契約は羊のいのちと血ではなく、神の子のいのちとその尊い血が流されたのです。それゆえ、もはやそれ以上の犠牲を必要とはしませんでした。聖餐式はイエス・キリストが私たちの罪の身代わりとして、その尊いいのちを捧げられた事、また、私たちの罪の赦しのために、その尊い血が流されたことを忘れないために設けられたものです。神の子のいのちの犠牲が無ければ、私たちの罪の赦しが無いとは、私たちの罪はどれ程大きなものでしょう。自分の罪の大きさが分からないと、イエスの十字架の死の意味を理解することは出来ません。ある人が言いました。「私はイエス・キリストが身代わりに死ななければ救われないほど悪い人間ではない。」また、「イエス・キリストにそんなことを頼んだ覚えもない。」確かにそうかもしれません。私たちはこれから先の事も、死後の世界もしりません。しかし、神は全てをご存じです。神はそのうえで、私たちのために、ひとり子イエス・キリストを人として地上に遣わしました。また、イエス・キリストは私たちを救うために十字架でご自分のいのちを犠牲にされました。ドラマで自分の子どもを助けるために、親が自分のいのちを犠牲にする話があります。また、私たちも自分の子を助けるためには自分のいのちを犠牲にする覚悟があるのではないでしょうか。それなら、この世を創造し、私たちにいのちを与えられた神も、私たちを助けるためにどれほど大きな犠牲を払う事でしょう。ローマ人の手紙5章6節~10節「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人の為なら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちが罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。」古い契約は「羊のいのちと血」でした。新しい契約は「神の子のいのちとその血」でした。古い契約に比べ、新しい契約はどれほどすばらしい契約でしょう。今日その事を覚え聖餐式を行い、神の恵みを受けたいと思います。