南ユダ王国アサ王の信仰

歴代誌第二14章1節~12節

イスラエルの国はソロモン王の死後、北と南に分裂しました。北イスラエル王国はヤロブアムが王となり、南ユダ王国はソロモンの子レハブアムが王に就任しました。この二人の王については、10月20日の礼拝でお話ししました。今日はその続きで、南ユダ王国の王アサという王について学びます。アサはレハブアム王の孫に当たります。

ソロモン王の子レハブアム王が南ユダ王国の王に就任し、北と南の王国は互いに対立関係ありました。レハブアム王が亡くなり、その子アビヤが王に就任しますが、三年間だけの短い王でした。そのアビヤが亡くなった後、アビヤの子アサが王位を継ぎました。歴代誌第二14章2節「アサは自分の神、主の目にかなう良いことを行った。」とあります。その良きこととは、異教の祭壇と高き所を取り除き、石の柱を砕き、アシュラ像を切り倒したとあります。さらに彼は、彼らの父祖の神、主を求めさせ、その律法と命令を行わせたとあります。アサ王は、ダビデ王に匹敵する信仰深い王となりました。神はアサ王を祝福し、周囲の国から守り、国は平和で繁栄しました。この時の南ユダ王国の兵力は、ユダの兵が三十万人、ベニヤミンの兵が二十八万人であったとあります。

そんな平和な時に、クシュ人(エチオピア人)が攻めてきました。その数、百万の軍勢と三百台の戦車とあります。南ユダ王国の倍以上の兵力です。この時、アサ王はどうしたでしょうか。11節「アサは自分の神、主を呼び求めて言った。『主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたに変わりはありません。私たちの神、主よ、私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に向かって来ました。主よ、あなたは私たちの神です。人間が、あなたに力を行使することのないようにしてください。』」アサ王は自分たちよりも二倍の兵力を持つ相手に対して、信仰によって立ち向かいました。すると、12節「主はアサとユダの前でクシュ人を打たれたので、クシュ人は逃げ去った。」とあります。アサ王の信仰による勝利です。

しかし、アサ王もソロモン王のように、晩年、神から離れてしまいました。16章1節「アサの治世の第三十六年に、イスラエルの王バアシャがユダに上って来て、ラマを築き直し、ユダの王アサのもとにだれも出入りできないようにした。」とあります。ラマとは地名で、この町を抑えることによって、南ユダの軍隊が自由に動きが出来ないようにしたということです。この時、アサ王はどうしたでしょうか。16章2節3節「アサは、主の宮と宝物倉から銀と金を取り出し、ダマスコに住んでいたアラムの王ベン・ハダドのもとに送り届けて言った。『私の父とあなたの父上の間にあったように、私とあなたの間にも同盟を結びましょう。ご覧ください。私はあなたに銀と金を送りました。どうか、イスラエルの王バアシャとの同盟を破棄して、彼が私のもとから離れ去るようにしてください。』」アサはこの時、神により頼まないで、北イスラエルの背後に位置するアラムの王ベン・ハダドに助けを求めたのです。しかも、神殿に納められた金銀を用いてです。4節5節「ベン・ハダドはアサ王の願いを聞き入れ、自分の配下の軍の高官たちをイスラエルの町々に差し向けた。彼らは、イヨンとダンとアベル・マイム、およびナフタリに属するすべての倉庫の町々を攻撃した。バアシャはこれを聞くと、ラマを築き直すのを中止し、その工事をやめた。」とあります。アサの作戦は成功し、北イスラエルの軍隊は引き揚げました。彼はなぜ、神により頼まないで、政治的(外交的)方法で問題を解決したのでしょうか。確かに彼の判断は間違っていませんでした。彼の思惑通り、北イスラエルの軍隊は国に引き上げたのです。しかし、その方法は、神の願う方法ではありませんでした。神は予見者ハナニを遣わしアサ王に言いました。7節~9節「あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした。それゆえ、アラム王の軍勢はあなたの手から逃れたのです。あのクシュ人とルブ人は大軍勢ではなかったでしょうか。戦車や騎兵は非常に多くはなかったでしょうか。しかし、あなたが主に拠り頼んだとき、主は彼らをあなたの手に渡されたのです。主はその御目をもって全地を隅々まで見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。これから、あなたには数々の戦いが起こるでしょう。」アサ王はこのことばを聞いてどうしたでしょうか。10節「アサはこの予見者に対して怒りを発し、彼を牢獄につないだ。彼に対して、このことで激しい怒りを抱いたのである。アサはこのとき、民のうちのある者たちを踏みにじった。」とあります。アサは自分の間違いを悔い改めることなく、予見者ハナニを捕らえ投獄してしまいました。さらに、12節「アサはその治世の第三十九年に、両足ともに病気になった。それは非常に重かったが、その病気の中でさえ、彼は主を求めず、医者を求めた。」とあります。医者を求めたことは悪いことではありませんが、神に助けを求めないで、この時も、この世の方法で問題を解決しようとしたところに彼の愚かさがありました。アサは彼の治世第四十一年に亡くなりました。彼は、確かに晩年、神から離れてしまいましたが、彼が行った偶像を取り除いた行為は神の祝福を受け、人々にも支持されました。また、彼の死を悼み非常にたくさんの香がたかれダビデの町に葬られました。

アサが王に就任したとき、国中の偶像を取り除き、イスラエルの神を褒めたたえました。また、クシュ人の大軍が攻めて来たとき、アサ王は神により頼むことによってクシュ人の軍隊を撃退することができました。しかし、晩年、北イスラエルが攻めて来たときには、神により頼まないで、アラムの王に助けを求めました。その判断は軍事的には成功しましたが、彼の信仰が後退し、目に見えない神ではなく、目に見える物に頼る者になっていたことを現しました。しかも、神から遣わされた予見者ハナニを投獄するなど愚かなことを行いました。この事から、私たちは信仰を持ち続けることの難しさを学びます。今の私たちの信仰はどうでしょうか。若い時は熱心だったけれど、今も同じような情熱を持って神の愛に応えているでしょうか。救いは、神の約束ですから変わることはありません。しかし、私たちの信仰は感情に伴い常に揺れ動いてしまいます。私たちの信仰はこの地上では、いつも信仰と不信仰の間で揺り動いています。イエスのたとえ話で有名な「種まきのたとえ」を見ると、道端に蒔かれた種と岩地に蒔かれた種と茨の中に蒔かれた種と良い地に蒔かれた種に分かれています。マタイの福音書13章19節「だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人の事です。」20節21節「また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」22節「茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」23節「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、ある者は百倍、ある者は六十倍、ある者は三十倍の実を結びます。」聖書のことばや神様の事を聞いても、興味がなければ心に残りません。また、聖書のことばを聞いてすぐに感動しても、困難や迫害が起こるとすぐに身を引てしまいます。茨の中に蒔かれたたねは、世の思い煩いや富の誘惑に遮られ実を結ぶことができません。アサ王はこのような人でした。良い地に蒔かれたものとは、「みことばを聞いて悟る人のことです。」とあります。このたとえ話の中心は、種が蒔かれた環境により実を結ぶか結ばないかに分かれることです。それは、みことばを聞く私たちの心を指しています。今の私たちの心の状態はいかがでしょうか。良く耕された地ように、神のことばを受け取りやすい心になっているでしょうか。神のことばを疑ることは人として仕方がないことです。しかし、そこでしっかりと神のことばの上に自分の信仰を建て上げることは自分の責任です。もう一つのイエスのたとえ話に「砂の上の家と岩の上の家」のたとえ話があります。砂の上の家も岩の上の家も見た目は変わりありません。しかし、洪水が起きたときに大きな違いが現れました。砂の上の家は崩れて流されてしまいました。しかし、岩の上の家は倒れませんでした。ここで言われている洪水とは、私たちの人生に起こる、危機的な状況を指しています。突然の病気や苦しみ、悲しみ、苦難など。その時にこそ、その人の信仰が表されます。その時のためにこそ、日々の備えが必要です。普段から神との交わりが豊かな人は、どんな状況でも失望することはありません。最後に詩篇1篇を読んで終わります。1節~3節「幸いなことよ、悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。主の教えを喜びとし、昼も夜も、その教えを口ずさむ人。その人は、流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。」