2023年3月26日 主日礼拝メッセージ

「子どもたちを神の御前に!子どものように神の御前へ!」マルコの福音書 10:13-16

I. 子どもたちを神の御前に

律法の教師に祝福を祈ってもらうという当時の習慣から、人々が子どもたちを連れてイエス様のもとに集まって来ました。ところが、イエス様の弟子たちは彼らを叱り、止めさせたのです。忙しいイエス様を気遣ったのか、それとも単に子どもたちが騒ぐのを嫌ったのか、真意は分かりません。しかし、彼らの態度や反応から、当時の子どもたちが軽んじられていたことが分かります。すると、イエス様は弟子たちの対応に憤り、「子どもたちを来させなさい。神の国はこのような者たちのものである」と言って、子どもたちを引き寄せ、手を置いて祝福されました。イエス様がここで言われた神の国とは、この世の社会的立場や価値観に捉われない世界。まさに、誰にでも等しく与えられる祝福を求めてイエス様の許に集まっ て来たこの光景を指しているのです。私たちは子どもたちを神様の御前に連れて来るということを大切にしたいのです。子どもたちが安心して教会に来ることができる環境を整え、子どもたちを教会に送って下さるように神様に祈り求めるのです。彼らが神様の豊かな祝福に与る為に、神様の御言葉に養われて成長していく為に、そして、神様を心から礼拝する者となる為に、積極的に神様の御前に導こうではありませんか。

II. 子どものように神の御前へ

次に、イエス様は「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」と言われました。神の国とは、神様が支配しておられる天の御国のことですが、これは単に場所だけを指しているのではありません。神の国は神様の支配を意味し、その支配は私たちにも及びます。つまり、神様を信じる信仰によって、自分中心に生きる人生から、神様を中心に生きる人生(神様の御言葉と御心を土台に据える歩み)にシフトし、全生活に神様の介入を受け入れるということです。この神の国(支配)に入るためには「子どものように」ならなければなりません。では、「子どものようになる」とはどういうことでしょうか。それは、純真無垢(心に汚れたところや、やましいところが全然なくて清らかである)という意味ではありません。自分は弱く、無きに等しい存在であり、功績や誇るべきものがない存在であると認めることです。イエス様のもとに連れて来られた幼子たちは自分では何もすることのできないような子どもたちです。また、私たち大人のように、体裁や、人々の評価に流されず、自らを高くしようとも考えません。ですから、自分の無力さ至らなさを認め、ありのままの姿で(「私には神様が必要です」と心を開いて)神様に近付き、神様に人生の全ての領域に介入していただく(神様を信頼して全てを任せる)のです。そのように神様の支配に与った人(神様と共に生きる者とされた人)が、神の国(天の御国、天国)に入ることができるのです。

今日のお花はユリ、チドリソウ、グラジオラジオラス、アルストロメリアです。