説教要旨」カテゴリーアーカイブ

2024年3月31日 主日礼拝メッセージ

「喜びの朝(あした) 」マタイの福音書 28章 1~15節   金田洋介牧師

イースターおめでとうございます。世界中で祝われるイエス様の復活は、私たち一人一人に関わる大切な事実です。イエス様が十字架に死んで墓に葬られてから三日目、すなわち安息日が終わって週の初めの朝(1 節)、女弟子たちはイエス様の正式な葬りの為に香油を携え、イエス様の亡骸が納められた墓へとやって来た時、突然地震が起こりました。それは天から降って来た御使いが、イエス様の墓を塞いでいた大きな石を動かしたからでした(2節)。恐れおののく彼女たちに、御使いは言いました。『あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。』(5~6 節)と。さらに御使いは、イエス様が復活された事実を他の弟子たちに知らせるよう命じます。彼女たちは大喜びで走って行きました(8 節)。するとその道すがら、復活されたイエス様に出会い、彼女たちの喜びと信仰はさらに揺るぎないものになります(9~10 節)。

その一方で、イエス様の復活の事実を曲げる勢力が働いたことが11節から15節に記されています。イエス様の復活の事実を曲げ、否定する力は、2000年経った今日も変わらず人々の心を躓かせ、信じなくさせます。しかし、どんなにイエス様の復活を否定する力が働いても、イエス様の復活の事実を命がけで宣べ伝えた十一弟子たち、女弟子たち、そして日本人も含む多くのキリストの弟子たちによって、福音(罪の完全な赦しと永遠の命)は今日を生きる私たちのもとに届けられたのです。私たちの信仰の原点、始まりは、女弟子たちが見た空の墓を見、そして復活されたイエス様に会った喜びの朝から始まったのです。

私たちの生きているこの世界も、女弟子たちが経験したような絶望の暗闇が覆っています。いつどこで起こってもおかしくない自然災害の脅威、今も続く戦地の悲惨な状況に心痛める毎日です。また、不正を犯す政治家や経済の先行き、私たちの生活を困窮させる様々な要因等、「これでは未来に希望が持てない」と不安に感じる人も多いと思います。しかし、どんなに世の中の状況が悪くなったとしても、私たちの生活を脅かし不安に陥れることが次々に起こったとしても、イエス様の復活がもたらす希望と喜びは決して失われることはありません。たとえ暗闇と絶望が襲ってきたとしても、喜びの朝が、復活がもたらす希望が必ず訪れるのです。死と罪の問題を打ち破り、よみがえられたイエス様が解決出来ない問題は何一つありません。復活の主が、あなたの絶望を希望に、悲しみを喜びに変えて下さるのです!それが、イエス様の十字架と復活を信じる全ての人々に与えられる希望です。どうか、決してなくならないこの希望と、喜びを握り続けて行こうではありませんか。どうか、信じない者ならないで、周囲に流されて疑うことを止めて、「信じてみよう」と信仰による決心の一歩を踏み出そうではありませんか。

 

今日のお花は、グラジオラス、ユリ、トルコキキョウです。

2024年3月24日 主日礼拝メッセージ

「私を思い出してください」 ルカの福音書 23:13-25、32-43   金田ゆり牧師

序論:罪は見つからない イエスはついに逮捕され、夜通し不当な裁判を受けられました。総督ポンテオ・ピラトはイエスを取り調べましたが、罪は何一つ見つかりません。ピラトは、イエスが妬みによって陥れられようとしていることを知っていました。歴史上、最も理不尽な裁判と刑罰に、イエスは静かに向かって行かれました。

(1) 正しいことを知っていながら、できない(18~26節)

祭司長たちに先導された群衆は、祭司長たちと共にイエスを十字架につけろと叫びます。ピラトは言わば裁判長であり、イエスを釈放すると判決を下しているにも関わらず、群衆は十字架につけろの一点張りです。ピラトは善良な総督だったわけではありません。ユダヤ人を大いに苦しめた人でした。しかし、彼ですら、イエスには一点の罪も見いだせなかったのです。しかし、暴動が起こることを恐れたピラトは要求を飲みました。正しいことを知っていましたが、できませんでした。何の罪状もなく、この正しいお方は十字架に引き渡されていきました。

(2) 十字架からあふれる愛(32~41節)

この狂気の渦の中、二人の犯罪人が、イエスを見ていました。この二人は、イエスと共に処刑されることになっています。最期の意識をイエスだけに向けたのです。ついに十字架につけられたイエスの最期の願いは、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかがわかっていないのです」。ありえない理不尽と苦しみの中、イエスからは愛と赦ししか出てきませんでした。一人の犯罪人は、「キリストのくせに自分とおれたちを救えないのか」と苦し紛れにイエスをののしりました。しかし、もう一人の犯罪人は自分の罪の刑罰を理解していました。イエスがどうして理不尽な裁判と罰に向かって行くのか、なぜ自分と同じ刑罰を受けるのか。彼は生涯の最期、愛と赦ししか出てこない、神のお姿をイエスに見ました。多くの人々が、イエスの惨めな姿に絶望していたのに、イエスのこの姿に神を見たのでした。地上の誰にも勝る信仰でした。こんな正しい愛のお方が、自分と同じ刑を受けているとは何ということなのだろう!「この方は、悪いことを何もしていない」と最後の力を振り絞ってイエスを弁護したのです。

(3) 私を思い出してください(42~43節)

この犯罪人は言いました。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください」。赦してくださいも助けてくださいも言えません。そんな資格がないからです。自分は当然の罰を受けており、赦してはもらえない罪人なのだから。せめて、私を思い出して下さるでしょうか…。私たちも、このイエスの姿を見て、自分の行い言動を振り返った時、十字架のこのお方に何と声を掛けますか。「私を思い出してください」としか言えないのではないでしょうか。罪を積極的に犯さなくても、正しいことを知っていながらしない、罪深い私たちなのですから。しかし、イエスは言われます「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」。地上では死罪になった犯罪人は、イエスと共に御国に入っていきました。自分の本当の姿が分かって、イエスの憐れみだけにすがるなら、イエスは即座に、あなたに救いを宣言されるのです。

 

今日のお花は、銀葉さざなみ、オリエンタルユリ、トルコキキョウ、スターチスです。

2024年3月17日 主日礼拝メッセージ

「イエスの祈りのゆえに」ルカの福音書 22:31-34、54-62   金田ゆり牧師

十字架前夜、イエスはペテロに言われました。十字架の苦難に伴い、サタンが弟子たちの信仰を麦のようにふるいにかけることを神に願い、聞き届けられたというのです。まるでヨブ記の天の会議を想起させます。しかしヨブ記と全く違うところは、イエスが弟子たちの信仰がなくならないように祈られた、というところなのです。

ペテロの覚悟 33~34節

イエスは、ふるいにかけられることは、信仰を失うような試練であることをご存じでした。そこで、信仰がなくならないようにあなたのために祈ったと、立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさいと、ペテロに言われました。しかし、一番弟子と自負していた彼からすれば、傷つく言葉です。たとえ死ぬとしてもご一緒しますと勇ましく言うのです。しかし、イエスは、今日鶏が鳴く前にあなたは三度わたしを知らないと言う、と言われたのです。ペテロは、この時、いかに自分が弱く脆い人間であるか気づいていないのです。冷たく想えるイエスの言葉はいかに愛と憐みに満ちていたか、気づいていないのです。

ペテロの三度の否認 54~61節

イエスは逮捕され、大祭司の家に連れていかれました。弟子たちは抵抗するつもりでしたが、イエスがそれを止め、静かに逮捕されたため彼らは混乱しました。イエスをおいて、逃げて行ったのです。ペテロはこっそり大祭司の家に行きましたが、「あなたも仲間だ」と言われ、「そんなに人は知らない」と言いました。三度「知らない」と否定し、嘘なら呪われても良いと誓っているとき、鶏が鳴いたのでした。「知らない」というのは、これまでのイエスとの関係は一切なかったということなのです。共に分かち合った喜びも悲しみも、イエスへの信仰もなかったことに。彼は泣き崩れました。イエスは彼の全てであったはずなのに、彼の全てが崩れていく涙でした。呪われて良いとまで誓った。自分はもう救いに与かれない。なんと悲しくつらい涙でしょうか。

イエスの祈りのゆえに ヨハネの福音書 17章 15~17、20~21節

イエスはペテロを見つめて何を思われたでしょう。32節の「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。これがイエスのお心です。イエスがこう言って下さらなかったら、彼は後に立ち直ることはなかったのです。ヨハネ 17章のイエスの祈りをご覧ください。十字架前夜、イエスは祈られました。ペテロがどのような状況になるかご存じで、それでもなお、彼が守られるよう聖別してください、と。従えなかったペテロの悲しみを受けとめ、先に憐れみを祈られたのです。それだけではなく、なんと、のちにイエスを信じるようになる私たちのためにも、祈られています。「わたしのうちにいるようにしてください」と。イエスを悲しませるようなことをする、それを承知の上で、私たちが滅びないように祈られたのです。この祈りのゆえに、ペテロは絶望から立ち上がり、時代を超えて私たちが今日、ここにいることを胸に刻みたいのです。信仰がくじかれるようなことがあっても、イエスの祈りゆえにむなしく終わることはありません。あなたは必ず兄弟たちを力づけ、希望と平安の将来につながっていくことを体験するでしょう。

今日のお花は、レースフラワー、オリエンタルユリ、スターチスです。

2023年3月10日 主日礼拝メッセージ

「にもかかわらずの信仰-ハバククの祈り-」ハバクク書 3:16-19   金田洋介師

にもかかわらずの信仰

南ユダに臨む裁き(苦しみ)の日の様子を見たハバククは、激しく動揺し、恐怖に震えてしまいました。しかし、どんなにあがいても、裁きの日から逃れることはできません。ハバククは自分たち同様に、「敵であるカルデア人に臨む『苦しみの日(神様の裁きの日)』を静かに待つ」と告白します(16 節)。カルデア人への裁きが、イスラエルの民にとって救いになるからです。

3:17 いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木には実りがなく、オリーブの木も実がなく、畑は食物を生み出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。
3:18 しかし、私は【主】にあって喜び躍り、わが救いの神にあって楽しもう。

この告白は、「にもかかわらずの信仰」と呼べるものでしょう。カルデア人の攻撃によって、あらゆるものが奪い取られ、破壊し尽くされるという絶望の未来が待ち受けているにもかかわらず、神様にあって喜び躍り、救いの神様にあって楽しむというのです。たとえ苦しみに遭ったとしても、それは神様のご計画が確実に進んでいることであり、苦しみの先には必ず神様の勝利と回復の未来(約束)が待っていると信じ、確信していたからです。ハバククは、最後に力強く宣言します。「私の主【神】は、私の力。」であると。嘆きと憂い、疑問と不満で始まったハバクク書の結末は、神様への絶対的な信仰と絶大的な信頼を表す告白で締めくくられています。ハバククの問いかけに対する神様の回答は、彼が願い望んでいた答えではなかったかもしれません。しかし、自分の望み通り、願い通りの結末ではなかったとしても、彼は静かに神様のご計画がなされるままに任せ、委ねたのです。そればかりか、たとえ苦しみを通ることになっても、神様のご計画が実現することを喜んだのです。

ハバクク書から学んだこと

  1. 神様との対話の大切さ。それは、神様を知ることができる恵みの機会であり、神様に自分の思いや願い、今感じている様々な感情、状況を神様に知っていただける幸いな機会です。神様との対話(御言葉を読み、聴き、祈ること)を通して、神様というお方を知ることができます。
  2. 神様が求めておられる生き方。それは、「…正しい人はその信仰によって生きる。」ということ。神様だけを信じ抜くことはもちろん、真実であられる神様(正しく、聖い神様、常に最善を成される神様)を信頼して生きるということです。
  3. にもかかわらずの信仰。これは、ハバククが行き着いた信仰の在り方です。彼の姿から学んだように、神様との対話から始まります。神様を知る知識が増し加わっていく時、全ての背後に神様のご計画があり、守りがあり、導きがあることを知ることできるように成長していくのです。そして、苦しみや困難さえも、神様の素晴らしさ、真実さを知る恵みの機会として受け取り、喜ぶことさえできるようにされるのです。

3:19 私の主、【神】は、私の力。

私たちの信仰の原動力、力の源泉は、神様であって、私たち自身にはありません。どこまでも、真実であられる神様に依り頼んで生きる。それが、私たちが目指すべき信仰生活です。

今日のお花は、ブプレリューム、テッポウユリ、アルストロメリア、スプレーキクです。

2024年3月3日 主日礼拝メッセージ

「もだして、ただ神を待つ-神が義と呼ぶ者-」 ハバクク書2:1-4、詩篇62:5-8   金田洋介牧師

神様の回答を待つハバクク(1 節)

疑問を神様に投げかけたハバククは神様の回答を聞き漏らすまいと注意深く待っています(1節)。彼の姿勢は学ぶべき態度だと思います。私たちは祈るだけ、呟くだけ、ぶつけるだけで終わってしまうことが多いのではないでしょうか。文句を聞いてもらって終わり。また、願い求めていながら実はあまり期待していないのかもしれません。ハバククは、「私の訴えについて、主が私に何を語られるか、私がそれにどう応じるべきかを見よう。」と、全力で待機していました。神様は生きておられるお方ですから、神様の答えを待つことが大切です。大切なのは神様との対話なのです。

神様の回答(2~4節)

ハバククの訴えと疑問に対して、神様は幻をもって示し、それらの言葉を板に書き記すように命じられました(2-3節)。そして神様は、イスラエルの民を裁くために立てたカルデア人について疑問を持っていたハバククの訴えに答えられます。「見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」(4節)。「彼」とは、1 章 4、13 節の「悪しき者」と呼ばれているカルデア人のことです。彼らは「うぬぼれていて直ぐでない」者たちで自分の力を誇り(神様以外の力に信頼する)、神様を畏れない者、神様に対して高慢な者だと言っています。神様はそれらの悪に対して徹底的に報いられるというのです。ハバククの嘆きや訴えは、しっかりと神様に届いていたのです。しかし、同時に神様の前に高慢であったイスラエルの民も例外ではなく、神様の裁きの対象であることを忘れてはなりません。一方「しかし、正しい人はその信仰によって生きる」とあります。これは、どこまでも真実であられる神様だけを信じ、信頼することによって生きることが正しいということ。それこそが、神様が求めておられる正しい人の生き方です。また、神様が認める正しい人の歩みは、神様に対する信仰姿勢が生き方に現れるということでしょう。常に神様の目と御言葉を意識して歩む者でありたいです。

もだして、ただ神を待つ(詩篇62篇5~8節)

説教題の「もだして」は、漢字で書くと「黙して」となり、 「黙って、ただ神様を待つ」ということ。信頼する神様の御業を信じ待ち望むという意味です。しかし、これは言いたいことを我慢して待てということではありません。詩篇 62 篇 8 節で「あなたがたの心を神の前に注ぎ出せ。」とありますように、「心を空にする」ほどに、湧いてくる不安や怒りや悲しみを、その気持ちを、信頼する神様に打ち明け(ぶつけ) 、神様の回答(応答)を待ち望むのです。ハバククもダビデも、自分で抱え込むのではなく、真実であられる神様に、心から信頼する神様に、様々な思いを正直に打ち明けました(ぶつけました)。あなたが今置かれている状況を神様は知っておられます。どうか真実であれる神様(正しく聖く、最善を成すことができる神様)の御前に心を注ぎだし、神様の応答を待ち望みましょう。そして、神様に示されたことを受け取り、神様とともに取り組んで参ろうではありませんか。

今日のお花は、コデマリ、アルストロメリア、オリエンタルユリ、スターチス、ツツジです。

 

 

2024年2月25日 主日礼拝メッセージ

「神との対話-ハバククの嘆き」ハバクク書 1:1-17   金田洋介牧師

ハバククの嘆き(2〜4節)

預言者は普通、神様に代わって民に語りかけるのが普通ですが、ハバククは民に代わって神様に訴えています。彼の訴えとは、「『南ユダの国中に暴虐が満ちている』と神様に訴えてきたのに、神様は一向に聞き入れて下さらない。救って下さらない」というのです。彼はユダの現状を嘆きつつ、神様の御心がどこにあるのかと理解できないでいます。神様は不法を放置し、私の苦悩をただ上から「『ながめて』いるだけだ」というのです。彼の嘆きと疑問に対して、神様は答えられます。

神様の答え(5〜11節)

ハバククの訴えに対し神様は意外な方法を明らかにされます。それは、カルデア人を南ユダの裁きの為に用いられるというのです。しかし、彼らは野蛮で、貪欲で、横柄な民族。豹よりも速く、狼よりも強暴。騎兵は、鷲のように襲いかかってくる。また、自分の力こそが神とする民族、それがカルデア人でした。神様は南ユダの暴虐を、堕落を、不誠実を黙って眺めていたのではありません。ただし、ハバククが思いもしなかった方法、まさに神様の方法でそれをされるというのですから、驚いたに違いありません。当然、神様の答えに彼は大きく反応します。

ハバククの訴え(12〜17節)

「何故、私たちよりも悪いカルデア人を放っておかれるのですか。自分たちと比べ、彼らは諸国民を食いものにしているではありませんか。多くの犠牲の上に彼らは贅沢に過ごしています。彼らの方が我々よりももっと悪ではないですか?」理不尽な現実に疑問をぶつけるハバクク。この訴えに対する神様の答えは2章へと続きます。

ハバクク書1章から学ぶこと

ハバククの時代に限らず、現代を生きる私たちの世間、我が国、世界に目を向ける時、「本当に神様はおられるのだろうか」と疑問に思うことに直面します。しかし、望みえない状況、現実に置かれても、私たちは神様のご支配の中に(神様の力強い御手の中に守られて)いると信じることが信仰なのです。迷う時こそ、悩む時こそ、不安に襲われる時こそ、神様を信頼するのです。積極的に御言葉を読み(聴き)、祈り、神様とのコミュニケーション(交わり)を持ちましょう。神様を人格的(人間と人間が互いの人柄を理解し合えるように)に知ることができます。それらを経て、私たちは神様を信じる者、信頼する者、畏れる者となれるのです。

最後に…詩篇42篇1~5節より。

作者は、自分の心の中に「鹿が深い谷底の水を慕いあえぐ」ような、激しい「渇き」があると告白します。作者は「生ける神」が遠くに感じられ、「渇いて」いたのです (2節)。出口のない苦悩と神様が共におられる感じないことで落胆し、弱り果て、思い乱れている自分を否定しません(5節前半)。しかし、神様を知り、信じた者となった彼は、神様に望みを置くのです。「こんな時だからこそ、神を待ち望め」と。この詩の作者が詩っているように、事態が改善せず、敵の攻撃も止まず、神様を求めても身近に感じられない中であっても、「私はなおも神をほめたたえる」との告白へと至らせる。それが神様の力です。ハバククもまた、神様との対話を経て、信じ、信頼し続けてきた神様を見出します。私たちの現実に何が起ころうとも、神様は全力で信じ、信頼するに足るお方です。生ける神様を仰いで参りましょう。

今日のお花は、カラー、フリージア、ユリ、ミモザです。

2024年2月18日 主日礼拝メッセージ

「神と人との前に誠実に生きる群れとなろう」列王記第二 2:19-25 コリント人への手紙第二 2:15-17   金田洋介牧師

神様に癒されたエリコ

エリコの町は、ヨシュアの時代に一度滅びました。その際ヨシュアは、「町の再建を企てる者は主に前に呪われ、礎を据える者は長子を、門を建てる者は末の子を失う」と宣言します(ヨシュア 6:26-27)。ところが、ヨシュアの宣言通りに長子と末子を失いながらも町を再建する者が現れ(I列王 16:34)、痛みの中に町は再建されますが、水が悪く多くの命が失われるという問題がありました。そこでエリコの人々は、預言者エリシャに助けを求め、神様はエリシャを通して水を癒し、命が失われるのろいを祝福に変え、回復されたのです(21-22)。

神様を畏れなくなったベテル

一方、ベテルの町にエリシャが訪れると、子どもたちが預者エリシャをからかったことでのろわれ、二頭の雌熊に襲われた42人の子どもが命を失うという痛ましい事件がおこります(2:23-24)。この地は、かつてヤコブの神体験がもとに「ベテル(神の家)」と呼ばれるようになった町でしたが、後に偶像礼拝が盛んに行われる町になってしまいました。偶像礼拝の影響が、真の神様を畏れず、預言者を敬わない子どもたちに成長させ、この悲しい結末へ至らせたのです。

エリコとベテルが示す教訓

かつて神様によって裁かれ、滅ぼされた町エリコ。そして、ベテルはイサクの子ヤコブに神様が祝福の約束を与えられた場所です。しかし、ここではエリコとベテルの立場が逆転しています。エリコは神様から祝福を受け、水源が癒されました。命が奪われていたのが、命が与えられたのです。逆にベテルでは、神の預言者を侮辱したことでのろいを受けています。子孫が増え広がると祝福されたのに、幼い命が大勢奪われてしまいました。神様の憐みの深さ、神様の裁きの厳粛さを思わされます。大切なのは、いつも神様を畏れ、神様の御言葉を素直に受け取り、応答すること(従うこと)だということです。しっかりと自分の心を見守り(箴言 4:23)、与えられた救いを握り(IIテモテ 3:14)、罪を示されたなら素直に悔い改める者でいましょう(ヘブル 3:15)。

神と人との前に誠実に生きよう

私たちは現代にあって、この世界にあって、神様の救いと祝福をもたらす「キリストの香り」としての使命をいただいていると聖書は教えてます(IIコリント 2:15-16)。それは同時に、祝福を受け取らない人、滅びを受け取る人がいるという現実の中に遣わされるということでもあります。呪われていたエリコが癒されて回復したように、滅びから命へと至らせる素晴らしい救い(福音)を私たちは持ち、それらを証しし宣べ伝える使命があるのです。それとともに、私たちの周囲には、本来受けるべき祝福があるのに、それらを軽んじ、受け入れないベテルのような人々が現実いることも心を留め、そこにキリストの香りを放っていく使命(神様の愛され、許されている喜びに溢れて生きる姿。どんな厳しい現実にも希望を失わないで生きる姿。)を持って遣わされていきたいのです。私たちが、「のろいに勝利し、祝福をもたらせる、キリストの香りを放つ群れ」としてこの世に遣わされていくこと、それが神様の御心です。そして、この神様の御心に応答することが、誠実に生きるということなのです。熊本真愛教会の群れが、キリストの香りを放つ群れとなれるよう祈り求め、新年度も歩ませていただきましょう。

今日のお花は、ミモザ、アカシア、オリエンタルユリ、アルストロメリア、グロリオーサです。

2024年2月11日 主日礼拝メッセージ

「神の憐みを忘れたニネベ」ナホム書 1:1-15   金田洋介牧師

ナホム書は、エルコシュ人ナホムに示された幻の記録です(1:1)。この書のテーマはニネベの(アッシリア)の滅亡です。ヨナの時代、王も民も家畜までの悔い改め、神様の裁きを免れることができたニネベは、再び神様の前に高慢になり、神様に敵対するようになってしまったのです。

【主】はねたんで復讐する神

2節に「ねたむ」とありますが、神様の「ねたみ」はイスラエルの民に対する愛の大きさを表しています。ですから、「ねたむほど愛している」イスラエルを苦しめる敵を許されません。イスラエルに敵対するニネベに怒りを向け、復讐されるのです。それ程、イスラエル対する愛は大きく、激しいということです。しかし、神様のねたみや復讐は私たち人間の様な感情的なものではありません。神様の怒りは力強く、恐ろしく、何より公正であるということです。

ニネベに向けられた神の憤り(怒り)

気の毒に思う程に、神様の激しい怒りはニネベに向けられます。それは彼らが神様に対して悪を謀り、企てたからです(II列王記19章)。神様はニネベ(アッシリア)を徹底的に滅ぼし尽くし、イスラエルの民をアッシリアの支配から解放する良き知らせ(福音)が届くことを約束されました(15節)。その言葉通り、紀元前612年にニネベは、アッシリアは滅亡しました。

神の憐みを忘れたニネベ

かつて、神様はニネベの町(人々)が滅びることを惜しみ、憐みの御手を差し伸べて、預言者ヨナを遣わされました。ヨナを通して告げられた神様の言葉を聞いたニネベの人々は、王も民も、家畜までも悔い改めたことによって神様の裁きを免れることができました。しかし、それはひとえに、神様がニネベを惜しんで、憐れんで下さったからです。ところが、ニネベの人々は神様の憐みを忘れ、再び高慢になり、暴虐の限りを尽くして国々を襲い、支配し続け、神様がねたむほど愛された神の民イスラエルにまで、その手を伸ばしました。その結果、神様の激しい怒りが下り、滅ぼし尽くされたのです。とても厳粛な思いがします。私たちも神様の憐みのゆえに今日あることを忘れてはなりません。

ナホム書から教えられること

1:6 主の激しい憤りの前に、だれが立てるだろうか。だれが、その燃える怒りに耐えられるだろうか。これ程の神様の激しい憤り、燃える怒りを向けられたニネベの悲惨さ、この怒りを招いたニネベの愚かさを思いますが、これは他人事ではありません。神様の憤りと怒りは、他でもなく私たち自身に向けられていることを忘れてはなりません。私たち人間は、生まれながらに怒りの子(神様の憤りと怒りを向けられる存在。エペソ 2:3)です。しかし、神様は私たちのために、ひとり子イエス様をこの世にお遣わし、私たちが受けるべき神様の激しい憤りと怒りをこのイエス様が身代わりに受けられたのです。イエス様は、私たちのため、私たちの周囲にいるニネベのような人(高慢で神様を畏れない人)のために、身代わりとなられたのです。もし、今、あなたの身代わりとなって神様の憤りと怒りを受けられたイエス様に応答したと願うなら、イエス様を与えて下さった神様に、神様の御心の従順であられたイエス様に、悟らせてくださった聖霊様に、感謝して生きましょう。この素晴らしい福音を証して生きましょう。どうか、あなたができる応答を神様の前にさせていただこうではありませんか。

今日のお花は、ユキヤナギ、テッポウユリ、バラ、スターチスです。

2024年2月4日 主日礼拝メッセージ

「義と愛を貫くお方」ミカ書 7:14-20   金田洋介牧師

預言者ミカの祈りと讃美

ミカは神様に向って、自らを南ユダに住むイスラエルの民と重ね、自らを民の代表者のようにしてとりなしています(14 節) 。かつて、イスラエルの民を導いたモーセも罪を犯し続けるイスラエルの民のためにとりなし祈りました。ミカは、詩篇23篇のダビデの詩を思い起こさせるように、羊のようにさまよっている民を牧してくださるよう神様に祈り求めます。すると、神様は出エジプトの時に行われたような奇跡を行って下さると約束してくださったのです(15節)。ミカは確信して言います。神様の大いなる御業を見た世界中の民が、神様の御前でおののき、畏れ敬うようになるでしょう(16-17 節)と。さらに、ミカは「あなたのような神は他にあるでしょうか。いや絶対にいない。」と神様を讃えます。なぜなら、神様が民の咎を取り除き、罪を赦して下さるばかり、怒りを鎮めてくださる、恵み深いお方(慈しみ深いお方)だからです。

ミカ書 7 章から私たちが受け取ること

(1) 望みえない状況に置かれても神様を信じて祈ることの大切さ

私たちは、預言者ミカのように全く望みえない状況にあっても祈り続ける者でありたいのです。神の民イスラエルも絶望的な状況でした。神様の前の正しさが失われ、不正がはびこり、自分さえよければいいという社会、人々で溢れていました。偽りに満ち、人間関係も家庭も崩壊していた。けれどもミカは神様に望みを置いて祈ったのです。祈りの手を上げ続けましょう。

(2) 神様は素晴らしい御業を行って下さると約束し、実現して下さるお方

結果的に北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、南ユダもアッシリアを滅ぼしたバビロンに滅ぼされ、イスラエルの民は捕囚されてしまいます。民自身の罪のゆえに神様に裁かれ、滅んだのです。イスラエルの民は周辺の諸国の物笑いの種になり、神様の御名が蔑まれました。しかし、ミカのとりなしは無駄に終わりません。神様は回復の預言、希望の約束を与え、ご自身の栄光を現わすと約束してくださったのです。これを私たちの生活に置き換えるとするならば、例えば、我々の回心によって(神様を信じる者となり、神様の御言葉を行う歩みに変えられることによって)、行動や言動の変化、生き方の変化が現れ、それがきっかけとなって他者の回心をも生み、救いに導き、神様の栄光に(神様が褒め称えられることに)繋がることが起こるということです。

(3) 神様は義と愛を貫くお方である

神様は罪を正しく裁かれるお方ですが、民を愛するゆえに罪を赦したい、裁きと滅びから救いたいと願っておられるお方です。この矛盾する二つを全うするために、罪のない者を罪人の代わりに裁くと言う道、すなわち、罪のない神の御子イエス・キリストを我々の罪の身代わりとして裁くことによって、神様は義と愛を貫かれたのです。このお方が私たちの神様なのです。預言者ミカはその信仰者生涯にあって、「あなたのような神はいない」との告白に至りました。同様に、現代を生きる私たちをも、この確信に満ちた信仰告白へと神様は至らせて下さいます。日々の歩みの中で、神様の御力、神様の義と愛を体験することができるように、自分の為に、他者の為に祈り求めて参りましょう。

今日のお花は、ネコヤナギ、梅干、オリエンタルユリ、スプレーストック、カラーです。

2024年1月28日 主日礼拝メッセージ

【主】があなたに求めておられること ミカ書 6:1-8  金田洋介牧師

今週と来週の2回に渡ってミカ書を開きます。預言者ミカが活躍した時期は、ユダのヨタム、アハズ、ヒゼキヤ王の時代(1章1節)、預言者イザヤと同じ時代に遣わされた人物です。ミカという名前はヘブル語で「誰が【主】のようであろうか」という意味。つまり、主のようなお方は他にはいないという意味です。本日は6章に注目します。

主の言葉に耳を傾けなさい~神の告発~ 1~5 節

神様はイスラエルの民に、過去の歴史において「あなた(イスラエル)を思い煩わせただろうか(口語訳:疲れさせた)」と問われます。神様はエジプトの奴隷支配からイスラエルを救出し、指導者を立て、荒野の導き手を備えて下さいました。ある時は、モアブの王バラクがまじない師バラムを用いてイスラエルを呪わせようと企てた時、呪いを祝福に変えて下さいました(民数記22~24 章)。また、シティムでは(約束の地にはいる直前に、イスラエルがとどまったヨルダン川の東の地(ヨシュア2章)。 増水したヨルダン川を神様の奇跡によって越えさせてくださいました。そして、ギルガルでは(ヨルダン川を渡ってすぐ宿営した地)、神様がいかに素晴らしいことをしてくださったかを忘れることがないように十二の石を積み上げ記念としました。それは、神様がしてくださった素晴らしい御業を子孫に伝え、神様を畏れ続けるためです(ヨシュア4章)。神様があらゆる敵から民を救い出してくださったにもかかわらず、民は神様への感謝を忘れ、偶像を熱心に愛し仕え、神の民にふさわしい生活をしませんでした。神様が民を煩わせた(疲れさせた)のではなく、民が神様を煩わせたのです。

【主】があなたに求めておられること 8節

6:8 主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、【主】があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。
【主】である神様は何を求めておられるか。それは「ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、神と共に歩むこと」だというのです。「公正を行う」とは、神様の基準にしたがって生活すること。神様の御言葉(教え、命令)を人生の土台とすることです。「誠実を愛する」とは、神様が見ておられることを意識しながら、神様と人とに誠実を尽くすことです。周りの反応を恐れずにつ歩みたいものです。そして最後に、「へりくだって、神と共に歩む」とは、神様との対話を持つようにすること、例えば祈りの中で、御言葉を通して、神様と対話するのです。そして、その対話の中で神様の御心を知り、神様の思いを我が思いとして生きる日々を過ごすのです。神様の前にへりくだり、神様の言葉に耳を傾け、神様の御思いに自分の心を向けながら、何が神様の目に良いことなのかを慕い求めること。そして、神様の助けをいただきながら実行していくことです。それが、神様が求めておられる応答です。主があなたに求めておられることを今日、胸に刻んで、この一週間を過ごしてまいりましょう。

今日のお花は、ユーカリ、オリエンタルユリ、アルストロメリア、カーネーション、チューリップです。