2021年7月11日
結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
伝道者の書 12章13~14節
神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
先週は、人が解決すべき課題について、見ていきました。今週は、その解決について見ていきたいと思います。
イスラエルに今でもあり、よくニュースで目にする嘆きの壁は、上の御言葉の著者であるソロモン王が建てた神殿の跡です。この神殿は、最初にソロモン王によって建てられましたが、バビロン帝国に滅ぼされ、エズラによって再建されました。しかし、これはまた滅ぼされ、イエス様の時代にも再建されました。しかし、その後もまた滅ぼされてしまいました。
ダビデ王によりイスラエルの国が統一され、その息子で、ダビデの後に王となったソロモン王の時代には、イスラエルは栄え、そのピークを迎えました。
ソロモンは知者の中の知者と呼ばれるほど、神様から特別な知恵を頂いた人でした。彼は、イスラエルの12部族を治めて、権力を握り、人が持ちたいと思うものすべてである、富、権力、地位を手に入れました。しかし、異国の妻たちに惑わされ、神様に罪を犯したソロモンは、晩年に「すべては空、空の空」と言って、伝道者の書を記しました。
彼は、すべては虚しいと悟り、先にお読みした伝道者の書の12章13節から14節の御言葉を記しました。彼は神様に罪を犯しましたが、神様を知り、この御言葉を記したのです。
すなわち、私たちが、生きていく中で最大のやるべきことは、神様を恐れて生きることです。これは、神様を知らない文化に生きる私たちにとっても、大切なことです。
先週は、サタンが私たちに仕掛けてくる常套手段について、見ていきました。これらに対して、御言葉は常に正しいことを受け入れ、へり下り、目の欲、肉の欲に打ち勝たなければなりません。
地上では、良いものも悪いものも混在しています。コロナウイルスの蔓延も地上で起こっている色々な問題も、人類が罪を犯した結果です。ただ、地上にはまだ、良いものも残されています。しかし、地獄は悪いもの、苦しみだけがあるところです。私たちが、地獄に行かないための解決は、神様との親しい交わりに入ることです。そしてその道を神様が開いてくださったのです。
人は、これまでの歴史の中で、その道を自分自身の力で開こうとしてきました。人は、金属や仏像などの偶像、自分で考え出した哲学や思想、修行などを生み出しましたが、何の解決にもなりませんでした。それは、神様が手を伸ばして下さらなければ、解決は与えられないからです。そして、神様は私たちを愛され、実際にそのことをしてくださったのです。
それでは、人のなすべき課題の解決について、具体的に見ていきましょう。一つ目は、まことの神様を探し求める、ということです。
神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。
使徒の働き 17章26~27節
それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
私は、古い慣習の残る福井の田舎で育ちましたが、幼い時、祖父がお土産に狐の置物を買ってきて、私に拝め、と言いました。その頃、本当に私は幼かったのですが、神様はお土産のように買ってこれるものなのかなあ、と疑問に思っていました。そして家の中にある置物を数えてみたところ、13個ありました。今回の狐が13個目でした。私には弟がいて、その頃、どちらのケーキが大きいかということでも喧嘩していました。そこで私は真剣に考えました。二人兄弟でも喧嘩をするのに、神様がこんなにたくさんいたら、喧嘩するから大変になるのではないかと。そこで毎晩、寝る前に祈り始めました。唯一まことの神様はどなたですか。13個の神々のうちどれですか、と。
神様は、どんなに小さな祈りでも聞かれ、応えてくださるお方です。教会の前でクリスマスのトラクトが配られた時、聖霊が働き、この神様が唯一まことの神様だ、ということが示されたのです。
また、私たちは皆、神様に反抗し、自分の欲のために人との関係も搾取して生きていくものです。神様を求めることのほかに、私たちは、自分が罪人であることを認め、悔い改めていく必要があります。悔い改めとは、180度方向転換することです。
そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。
この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。
このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、
自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
マタイの福音書 3章1~10節
あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。
斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
バプテスマのヨハネは、イエス様の道を用意した人ですが、迫りくる怒りを逃れるために悔い改めなさい、と人々に説きました。そして、告白するだけではなく、悔い改めにふさわしい実を結びなさい、と言いました。また、もし結んでいかないならその人は滅ぼされる、とも言いました。
イエス様も、悔い改めが大切であることを御言葉によって示されています。
この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。
マタイの福音書 4章17節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
また、ザアカイの例を通しても、イエス様は悔い改めた人を喜んで受け入れられたことがわかります。
それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。
ルカの福音書 19章7~10節
するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。
イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。
しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」
イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
ザアカイは取税人のかしらでしたが、当時、ローマの支配下にあったイスラエルには、取税人がいました。取税人は、ローマに納める税金のほかにも、自分の儲けのために、民から厳しく税を取り立てていたため、当時ひどく嫌われていました。しかし、彼らはローマに遣わされていたので、誰も文句は言えませんでした。そして、ザアカイは、そのかしらであったため、なおさら嫌われていたのです。
取税人は、貧しい人からも容赦なく取り立てて私腹をこやしていて、非常な金持ちでした。そんな取税人のかしらであったザアカイは、次のように、イエス様に言ったのです。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」
彼は、貧しい人からも容赦なく取り立てていたので、財産の半分を貧しい人たちに施すと言いました。そして、自分の私腹を肥やすため、人々から脅し取っていたため、それを四倍にして返すと言いました。ザアカイは、ここで自分の信仰と悔い改めを告白しています。これは悔い改めの、一つのしるしです。
イエス様が、そのことを喜んで受け入れらたことが、次の御言葉からもわかります。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」
このように、悔い改めは、行いを伴うものです。ヨハネのバプテスマでは、人々は告白をただ単にしていただけでした。しかし、主は、行動を伴う、本当の悔い改めを私たちに求めておられます。
そして、私たちは、悔い改めと同時に、罪のゆるしも受けていく必要があります。
人が犯す罪は、どんなに小さなものでも、すべて究極的には神様に対して犯す罪です。私たちは、生まれてから数えきれないほどの罪を犯してきました。それは、どんなに良い行いを積んでいっても償いきれないほどの数です。私たちは、働いても到底返すことのできない借金を神様に負っています。そして、その借金を負わせている人に帳消しにしてもらわない限りは、自分でそれは許された、といくら思ってもまったく意味がありません。
神様こそ、それを帳消しにする権利をもっておられるお方です。このことは、神様の方法でなければ罪の問題は解決されないことを示しています。
律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。
ヘブル人への手紙 9章22節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
神様が罪を赦すために制定されたのは、血を流すことでした。最初の模型では、動物の血が捧げられていましたが、本物はイエス様であることが次の御言葉に記されています。
キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。
ヘブル人への手紙 9章24~28節
それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストはご自分を何度も献げるようなことはなさいません。
もし同じだとしたら、世界の基が据えられたときから、何度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
動物の血を捧げていたときには、何度もそれを捧げなければなりませんでした。しかし、イエス様のときには、ただ一度だけ捧げられたことにより、罪が取り除かれたのです。イエス様の血については、最後の晩餐のときに、イエス様が次のように言われています。
また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
マタイの福音書 26章26~28節
また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエス様が十字架にかかられたのは金曜日でしたから、あのレオナルド・ダヴィンチの絵でも有名な最後の晩餐は、木曜日の夜に行われました。そのとき、イエス様はパンを取って裂き、ご自分の御体が裂かれることを象徴されました。そしてさらに、杯をとり、多くの人の罪の赦しのために流されるご自身の血を象徴されました。
イエス様の血によってのみ、罪は赦されます。そうでなければ、どんなに善行を行っても、どんなことをしても赦されません。それほど私たちの罪は償い切れないほどの数でした。このため、神様は、イエス様の血をみて、人の罪を赦されるのです。
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
ローマ人への手紙 5章8~9節
ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
私たちが神様を知らずに自己中心に歩んでいたとき、イエス様は私たちの罪のために死なれました。私たちの罪はいっぱい積まれていましたが、債務証書が釘付けにされ、支払い切れない代価は帳消しにされました。こうしてイエス様の尊い血によって、私たちは、罪を赦され、神様の前に義とされ、正しい者とされました。
また、イエス様が十字架に架けられたことにより、私たちは神様と和解させられました。
敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。
ローマ人への手紙 5章10節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
私たちが、自分を罪人であると認め、イエス様がその罪のために死んでくださったことを信じ、イエス様に信頼して聞き従うなら、私たちは救われ、永遠の命を与えられます。以下の有名な御言葉も読んでいきましょう。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネの福音書 3章16~17節
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
イエス様は、十字架の死により、神様の御怒りを引き受けてくださいました。そしてイエス様を主として受け入れる者には誰でも、永遠の命を与えられます。
ここで注意しなければならないのは、多くの人は赦しの部分だけ受け入れて、悔い改めをないがしろにしていることです。しかしこの二つは必ず同時に起こります。バプテスマのヨハネも、悔い改めを説き、イエス様の道備えをするために遣わされました。赦されたからそれで良いわけではなく、悔い改めることが必要です。もし悔い改めたなら、搾取していた貧しい人に返す、と言ったザアカイのように、それは必ず生き様になっていきます。
このように、救いは行いを伴うものです。罪の赦しを認め受けていくだけではなく、地上で生きている間に聞き従い、栄光から栄光へとつくり変えられていくことが必要です。聞き従うことが救いに必要なことは、御言葉にはっきりと記されています。
御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
ヨハネの福音書 3章36節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
しかし、イエスは言われた。「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」
ルカの福音書 11章28節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
マタイの福音書 7章21節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
実は、私たちが聖書を読むのは、神様に聞き従っていくためです。イエス様が、私たちに、出て行って弟子をつくるように命じられた時も、その命令を守るように教えなさい、と言われました。私たちが地上においてなさなければならない、与えられている課題は、御言葉を学び、実行して守ることです。
罪のゆえ、人と神様との関係は破壊されました。それが、私たちが地上で与えられている唯一の課題です。そしてその解決は、まず、本当の神様を見出すことです。そして、神様を無視し、隣人をないがしろにしてきたことについて、180度方向転換して悔い改め、罪の赦しを受け入れることです。そしてさらに、イエス様を救い主として受け入れて生涯聞き従って生きていくことです。こうすることによって、神様が喜ばれ、断絶が回復されていきます。また、神様の子どもとされていきます。これらは私たちにとっての人生の課題であり、私たちは、それに向かって歩み、人生をかけて行っていくことが必要です。
神様を敬い、その命令を守っていくことが、唯一、人間に与えらた課題です。ソロモンは、これが人にとってすべてだ、と語りました。ここからさらに、それを行っていくために神様から与えられた助けについて、また後日、見ていきたいと思います。