2022年7月10日
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
コリント人への手紙 第一 15章56~58節
しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
Hさんにはもしかしたら、話していなかったかもしれないですが、重病が見つかったので、明日入院します。このため対面礼拝は、主が癒してくださるのでなければこれが最後になります。入院している間は、できれば音声でメッセージを送りたいと思っています。このため皆さんは、これからも来てくださったら良いですが、「やっぱり牧師がちゃんといるところが良い」と思われる方は今からそちらの教会に行かれたら良いと思います。
主が癒やしてくださらなければ最後の礼拝になるわけですけれども、何を話そうかと思っていました。長く来られている方には断片的にお話しましたが、私の神様との出会いと、イエス様と共に歩んだ日々についてお証しして、少しでも皆さんの助けになればと思い、今日は証を中心に、御言葉を踏まえてお話したいと思います。
私が生まれたのは、福井県小浜市という片田舎で、当時はまだ教会もありませんでした。でも、神様は私がまだ幼い時、自分の父や母の名前もわからない時に、偶像の神々の盛んな中で、真の神様は一人だけだという思いを与えられました。どうしてそう思ったかと言うと、家にはいっぱい神様と呼ばれるものがあって、おじいちゃんが「お土産だ」と言って狐を買ってきて、「これが今日から新たに神様になるんだ」と言った時、「そんなお土産に神様を買ってくるなんて、おかしい」と思ったのです。小さいながら神様はお一人だけだと思っていました。そうじゃないと混乱する、と思ったのです。私も弟がいますけれども、当時は貧しかったので、ケーキとかをもらうと、どっちが大きい小さいとなどと言って、喧嘩が起こるわけです。ですから、真の神様はお一人だけだ、と思いました。
そのような思いも、自分が思ったというよりも、後から考えると神様がそういう思いを入れてくださったんだと思います。そして真の神様はお一人だけだ、という思いが与えられた時から、(他の神々にも祈れ、と言われるから祈っていましたけれども)私は夜ひざまずいて、「真の神様、あなた様はどなたですか。私に教えてください」と、毎晩祈って寝るようになりました。
そんな時に、小学校に入る前のクリスマス、イエス様のことが書かれているキリスト教団体のトラクトが新聞折り込みに入っていました。それを見た時どうしても読まないといけない、という思いが来たのですが、字が読めなかったので、父のところに持っていって、トラクトを読んでほしいとお願いしました。そして父が初めて口にした「イエス・キリスト」という言葉を聞いた時に、上からすごく温かいものが降りてきたのです。
その時はわからなかったですが、今は聖霊様だったことがわかります。
その時は「イエス・キリスト」という名前を聞いてもどなたかよくわかりませんでした。その内容は大人向けで難しかったので、まだ小学校にも行っていない私にはわからなかったですけれども、イエス・キリストという名前を聞いた時、「本当の神様はどなたですか」と尋ね求めた時の答えだとわかりました。イエス様こそ私が本当に帰るべきお方、ふるさとのようなお方だということがわかって、涙が出てきました。でも、誰もイエス様のことを説明してくれる人がおらず、よくわからないままだったのですが、それからイエス・キリストという名前を聞くたびに、同じように温かい思いが来るようになりました。
そして小学校に入り、聖書物語とかを読み、イエス様がどういう方か少しずつわかるようになっていったのですが、はっきりとはわかりませんでした。そして、私が10歳の時に、フィンランドからテント集会を開くようになりました。4日間だけでしたけれども、子供集会に行って、イエス様のことを少しずつわかるようになってきました。もっと知りたいと思ったのですが、テント集会だけでしたから、それ以上深く知ることはできませんでした。でもイエス様は私の罪を背負って死んでくださったことが印象に残り、イエス様こそ、私の本当の救い主だということがわかりました。
そして小学5年生、10歳の時の9月15日は忘れもしません。叔母が秋祭りに呼んでくれて、叔母の家の周りを一人で探検していました。そうしたら、わりと近くに教会があったのです。そんな綺麗な教会ではなくて、ペンキもはげているような教会でしたけれども、初めて教会を、十字架を見つけて、嬉しくて教会のドアを叩いたのですが、誰もいませんでした。
がっかりして、もと来た道を帰ろうと思って振り返り、私は歩き出しました。そうしたら背後から声が聞こえて、「私の愛する娘よ、私はあなたが私のところに帰ってくるのをずっと待ってますからね」と語ってくださいました。男の人の声でしたから、「その声は誰なんだろう」と思って振り向きましたが誰もいませんでした。でもその時、その教会が光り輝いていたのです。「ここに、イエス様、本当の神様がおられるんだ」ということを私は確信しました。そして私が大きくなったらイエス様のもとに帰るのはもちろんのこと、本当の神様も知らずに、他の神々を拝んでいる人たちに、イエス様のことを伝えたいと思うようになりました。9月15日、もう10歳の時に、私は将来伝道師になるという決心をしたのです。
家は遠かったので、小学生の私は、それから教会に通うことはできませんでした。でも、その時の体験がすごく強烈だったので、将来キリスト教の伝道師になると決めていました。
そして、高校に入学した時に、教会の横に教会が建てられていました。後からわかったのは、私が初めて見つけた教会が、新築して引越してきたのでした。高校の横に教会ができて私はすごく嬉しくて、行ける時はいつも教会に行って、そのフィンランドの宣教師の先生から、聖書の話を聞いて、イエス様を信じるようになりました。そして、洗礼を受けたいと思っていたのですが、うちの家はみな色々な神々を信じる家だったので、許してもらえず、礼拝に行こうとすると妨害も受けるようになりました。見張りをされ鍵をされ。でもイエス様を信じて洗礼を受けたいという思いはすごく強かったです。
そして高校2年生の時、両親に反対されるのはわかっていたので、黙って洗礼を受けました。そのことが父の耳に入った時、父は私にすごく怒って、あの時はとてもつらかったのですが、半年間口を聞いてくれませんでした。でも夜になると聖霊様が来られて慰めてくださいました。つらかったですけれども、一番、聖霊で満たされた時はその時だったことがわかります。
父が口をきいてくれなくなってから半年後、父が私を呼んで初めて口をきいてくれました。「どうしてもキリスト教をやめられないんだったら、もう娘じゃないから家を出て行け」と。まだ高校2年生でしたから、家を出て行けと言われてもどこに行って良いのかわからず、イエス様にただひたすら、家に残れるように、高校だけは卒業できるように、と祈りました。
父はもうカンカンに怒っていて、家を出て行けと言うし、「どうしよう」と思っていました。家の前にちょうど橋があって、瓦があったのですが、そこで天使が私を連れて行くのを待っていようかな、などと思ったりしていました。すると急に、父が私を呼びました。どうしてかと言ったら、父が私に「出て行け」と言ってから、今まで全然痛くなかったお腹が急に痛み出して、もう七転八倒、脂汗をかき始めて、父が私に言ったのです。「世界中で信仰している人がすごく多いイエス様を信じることに反対したので、バチが当たった」と。まあバチではないですけれども、その時父はそう思ったみたいで、「もう出て行かなくても良い」と言ってくれたのです。そうしたら、すごく痛かったお腹の痛みがすっと消えたのです。それから父は、イエス様はすごい力がある方だ、という風に一目置くようになりました。そして私の信仰に対しては文句を言わなくなりました。
その頃、本当に、大変な時だったのですが、聖霊の恵みもたくさんありました。私は聖書の最初から読んでいて、ダニエル書3章のダニエルの友達、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴといった3人の友達が火に投げ込まれたのに、その3人は何の害も受けずに、その燃えさかる炉から助けられたという記事を初めて読みました。この箇所に来た時、私は、「そんな燃える火の中に投げ込まれたのに助かるわけがない」と、理性的に受け入れることができませんでした。それで、私は神様の力を経験したのに、どうして聖書のみことばを信じられないんだろうと思ったのです。
私は冷や汗が出てきました。そしてその時、ヤコブ書の「あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい」という言葉を思い出しました。私はその言葉を頼りに、「神様、今晩、ダニエル書の御言葉を信じられるように助けてください。私は、人間が火の中に投げ込まれて助かるなどということは信じられないです」と祈りました。「でも今日、知恵を与えてくださらなければ、私は聖書を読み進めることができないし、神様に全き信頼をおくことができないので、その知恵を与えてください」とずっと祈りました。
そうしたらその時、パウロが光で打たれた時のような体験を自分の部屋でしました。そして、すごい主の臨在があったので、畳の上に倒れ込みました。そして、私の体は動かなかったのですが、イエス様が来られたのがわかりました。そしてイエス様と対話することができたのです。
そして、イエス様が「今日は、あなたに三つのメッセージを持ってきました」と言われました。「どんなメッセージですか」とイエス様に聞いたら、「まず第一は、聖書に書いてあることは全て本当だ」と言われました。私は今まで、ダニエルの友達が火に投げ込まれたのに助かったことを信じられないでいたことが、本当にちっぽけなことだとわかりました。イエス様はこんなに大きな力を持っておられるのに、神様は、ダニエルの3人の友達を火の中から助け出すことは簡単だということを、理性ではなく、本当にその力を体験して、受け入れられるようになりました。そして、イエス様が「聖書に書いてあることは全部本当だ」と言われた時、それを受け入れるだけでなく、聖書を読みなさいと言われていたのでそれまで義務的に読んでいましたけれども、聖書が与えられていることが本当に大きな恵みだということを知ることができました。そして神様の御心が聖書に全て記されていて、私達に聖書の御言葉が与えられていることを心から感謝しました。
それから、「二番目のメッセージがある」と言われました。「二番目のメッセージは何でしょうか」と私がお尋ねしたら、「祈りは全部聞いている」と言われたのです。私は、その時のように心を注ぎだして祈れば聞かれているけれども、トイレでちょっと祈った祈りは聞かれていないんじゃないかと思っていました。けれどもイエス様は、「祈りは全部聞いている」と言われました。祈りというものは何か義務的なもののように思っていたところもあったのですが、祈りは大きな恵みだということがわかりました。天と地をつくられた神様の前に、私達の願いをお伝えすることができ、神様の御思いも知ることができる。神様とのコミュニケーションを取ることのできる祈りが与えられていることは、どんなに素晴らしいことかと思って、祈りという手段が与えられていることにすごく感謝しました。
そうすると、イエス様は「3番目のメッセージがある」と言われました。3番目のメッセージは、「あなたは誰にもイエス様のことを語っていないけれども、語ってほしい」と言われました。「その人がイエス様を信じる信じないは、あなたの責任ではない。だからともかく語りなさい」と言われました。私もその時高校2年生で、みんなに「隠れキリシタンだ」などと言われて、ちょっと傷ついたところもあったのですが、「はい、わかりました」と言ったら、イエス様が去られ、その力がすっと取られて、私はまた自由に動けるようになりました。
そして、ダニエル書の3章を読むと、さっきまで信じられず冷や汗が出てきた箇所がすんなりと信じられるようになりました。あの経験も本当に素晴らしい高校2年生の時の主が与えてくださった経験だと思います。本当にその時から、聖書に対する捉え方が変わりました。聖書は神様から私達に与えられたラブレターとあるように、私達にとって聖書の御言葉は、それを通して神様の御心を知ることができる本当に大切なものです。また、祈りは全部聞かれているし、また福音を伝えることも大切だと言われました。その人が信じる信じないは私の責任ではないけれども、私は真の神様と救い主であり主であるイエス様を伝えないといけないことを、ずっとその時から思うようになりました。
そして、高校3年生になりました。父がすごく反対していた時は霊に燃えて主に仕えていたのですが、人間というものは、反対がなくなると、生ぬるくなってしまうことを私も経験しました。
私が行っていた高校は田舎の高校ですけれども、一クラスだけ理数科という進学コースがあって、私もそのコースでした。ほとんど8割9割は国立に行くし、優秀な人は東大京大、医学部に行くようなクラスでした。そして高校3年となると受験勉強で殺気立ってきました。私は伝道師になろうと思っていましたけれども、周りの影響はすごいな、と思います。私も周りに感化されて、同じ伝道師になるにしても、みなが私の話を聞いてくれるように影響力がある人になった方が良いんじゃないか、そのために良い大学に行った方が良いんじゃないかという、全然イエス様から離れた思いにとらわれて、受験勉強に邁進するようになっていきました。そして、礼拝は毎回行っていましたけれども、心そこにあらずで、家に帰ったらどの教科を勉強しようか、などとばかり考えていました。
そして、その日は11月の木曜日でした。当時は田舎の高校で予備校もなかったので、自分で勉強したり高校で補習を受けたりしていたのですが、18時近くまであった補講が終わって、家に帰るバスもギリギリになってしまいました。そして、バスターミナルまで行くと、私の乗るバスがバスターミナルにすでに止まっていたのです。
私は「これは大変だ」と思いました。あのバスに乗り遅れたら1時間半待たないといけなかったのです。そのバスターミナルまで行く前に横断歩道があるのですが、そのバスに乗ろうと思って、信号を見ないで走り出しました。1時間半もバスターミナルで待たされたら勉強が遅れてしまう、と思って走り出したのですが、後で信号を見ていなかったことに気がつきました。
すると横断歩道の途中まで来た時に、歩行者の信号は赤だったと思いますけれども、車がものすごいスピードで私に向かって走ってきました。あまりにもスピードが速かったため避けられず、私は「ひかれる、死ぬ」と思って、その横断歩道の真ん中で佇んでいました。
「もうひかれる」と思っていたのですが、待っても何も起こりませんでした。それで「どうしたんだろう」と思って目を開けたら、車が私を通り越して、反対側に走って行っていたのです。何が起こったんだろうと思って、私は震えていました。そして、そのバスにはもちろん乗り遅れて、バスターミナルでも震えていました。そして一時間半持って、次のバスに乗り、家に帰って「ご飯だよ」と言われても、箸を持つ手も震えてご飯も食べれず、またちょっと勉強しようと思って机に向かいました。けれども、鉛筆を持つ手も震えて、持てずにいました。「何が起こったんだろう」と思って。その日は木曜日だったのですが、震えて何が起こったのかわからずにいました。
でも金曜日、土曜日と経ち、「そんなことにとらわれていたら、受験勉強が遅れてしまう」と思ったり、あの当時は「みんなライバルだ」などと言っていたので、私も看過されて「受験勉強に勝てない」などこの世的な思いを持ってしまっていました。そして先ほど申し上げたように、日曜日、礼拝だけは行っていたのですが心ここにあらずで、聖餐式もあると聞いて、「また1時間半、バスが遅れる」と思ってちょっと残念だったのです。聖餐式は本当に喜びの時なのに、「とても残念だ」などと思っていました。
義理ながら聖餐式にも出ていたのですが、その時にフィンランドの先生が、今日は特別なメッセージが神様からありますと言われました。そして、そのメッセージはこうでした。「主がこう言われています。私の愛する娘よ。私はあなたがまだお父さんの名前が誰か、お母さんの名前が誰かわかる前から私自身を示してきたのに、あなたは最近、私のことはすっかり忘れて、この世の名誉とか成功ばかり求めてて、とても悲しく思っています。あなたは木曜日、本当は車にひかれて死んでたんだけれども、私は天使を送って、交通事故から助けました。でも、あなたは私に感謝もせずに、この世の名誉とか成功ばかりを求めているので、とても悲しく思います。あなたは覚えていてください。本当は木曜日の夜、あなたは車に轢かれて死んでたんですよ。だからこれからは、この世の名誉とか成功を追い求めるのではなくて、私に従って歩みなさい。あとの生涯は、私に捧げて歩みなさい。」
そう言われて聖餐式の特別なメッセージが終わりました。私はメッセージが終わってすぐ宣教師の先生に、「私が車で轢かれそうになったのを見てたんですか」と聞いたら、「そんなの見てないし、こんなすごいリアルで正確なメッセージが来たのも(その時先生は55歳だったのですが)この55年間一度もなかった」と言われたのです。そして、「あなたがあまりにも神様に背を向けてこの世の名誉とか成功ばかり求めているから警告されたんでしょう」と言われました。そして「主にだけ、イエス様にだけ仕えていきなさい」と言われました。
私もさすがにその時は、悔い改めました。この世の名誉とか成功は命あってのもので、その高校生の時の18歳の11月に車に轢かれて死んでいたんだと思いました。そして「これからはイエス様にだけ仕えていきます」と言って、私はすぐに宣教師の先生に、「私大学行くのはやめて、神学校に行って、すぐ伝道師になります」と言いました。すると宣教師の先生が、「イエス様はあなたに大学に行かないで、神学校に行きなさいとは何も言われていないから、大学に行ったらどうですか」と言われたのです。私はちょっとがっかりしました。「ああ、この世の名誉とか成功を求めたので、イエス様は私を伝道師にさしてくださらないんだろうか」と思いました。
そして当時国立は1個しか受けられなかったので、某国立の医学部を受けたのですが落ち、家はそんなに裕福でなく弟も控えていたので、試験日が違う静岡の県立の薬学部で勉強しました。全然薬剤師になるつもりはなく、私はその時、主のご計画がわからずに、この世の名誉とか成功を求めたから、薬学部に来てしまったんだと思って、あまりモチベーションが高くない学生生活を送りました。でもその中でも聖書研究会を作ろうと思って作りました。そしてこの間来てくれたNさんとかが救われて、それは感謝でした。
そして薬学部を卒業する時に、「もう大学で勉強したし、今度は伝道師になるため神学校に行って良いですか」と聞いたら、道が開かれずに就職することになりました。そして、淀川キリスト教病院で、何年か働きました。そこで本当に良かったことは、ほとんどクリスチャンではなかったのですが良いクリスチャンの友達も全国から集まっていたことで、そのことが感謝でした。そして、院長先生となぜか気があって、院長先生がいろいろと私を助けてくれました。「先生、本当は薬剤師として働くんでなくて、伝道師として働きたい思いがあるんです」と言ったら、「それは良いことだ」と賛成してくださったんです。
そして、神学校に行きたいと言っても全然道が開かれないので諦めていた頃、ちょうど30歳になった時、イエス様が、「今が神学校に行く時ですよ」とはっきり私に語ってくださいました。私はその時、主任(係長?だったか忘れました)とかにもなってたり、ちょっとリーダー的な役目もあり、薬剤部に30人ぐらいいたのですが、薬剤部長の後クリスチャンが誰もいなくて、「あなたが将来の薬剤部長よ」などと言われるとその気にもなっていました。
「私は淀川キリスト教病院の薬剤部長でイエス様に仕えていくんだ」と思っていたその時に、「今が神学校に行く時ですよ」と言われてちょっと私もびっくりしました。そう言われるなら、私はもともと伝道師になるつもりだったので、「病院を辞めて神学校に行きます」と言いました。そして「どこの神学校に行ったら良いですか」と聞きました。KBIとか日本の神学校だと思っていたので、イエス様に「KBIとか塩屋の聖書学校が良いですか」と祈っていたら、「いや、アメリカに行きなさい」と言われたのです。
「アメリカ?」と思いました。「アメリカに行ったら、全部英語で授業を受けないといけないのに、私は大体英語にそんなについていけるレベルじゃないので、どうしたら良いでしょうか」と聞きました。すると主は、「全部助けてあげるから」と言われました。そして「どこの神学校に行ったら良いですか」と聞くと、「アメリカの領事館に行ったら、そこに神学校の名前が書いてあるから、それを借りて読みなさい」と言われました。「そこであなたが行くべき神学校を示してあげるから」と。
それで私は、当直明けでしたが、領事館に行ってその神学校の本を読みました。Aから順番に見ていき、Cというところに来た時、コロンビアという文字が、他の文字と一緒のはずなのに、そこだけ大きく浮かび上がってきたのです。それで「ここが私が行くべきところだ」という確信が与えられたので、そこの住所を書き写して本を返しました。それから「私はコロンビアの神学校に行くんだ」と思っていました。
そして、願書を取り寄せたら、TOEFLという試験を受けないといけないし、推薦状も英語で書いてもらわないといけませんでした。ちょっと大変でしたが、推薦状は何とか病院の宣教師に色々とお願いして、英語で書いてもらえました。でもTOEFLだけは、受けたら点数が400点台で全然足りませんでした。コロンビアは神学校の大学院だったのですが、留学カウンセラーに聞いたら、「その点数じゃ、大学院どころか学部だって難しいですよ」と言われました。「じゃあ600点取るにはどうしたら良いですか」と聞いたら(600というのは当時9割でした)「1年間アメリカで英語だけ勉強しても、あなたの成績じゃ600に行くのは難しいですね」と言われてしまったのです。
私は英語学校に行く余裕もなかったし、お金も大して持ってなかったし、ともかく病院にも「神学校に行くのでやめます」と言っていたので、「すぐに神学校に入れるように助けてください」とイエス様にお願いしました。すると次にTOEFLを受けた時、今まで全然聞き取れなかった男女の会話を、日本語を聞くようにはっきりと聞き取ることができたんです。「どうして今日の英語ははっきりわかるんだろう」と思ってびっくりしながら回答しました。
リーディングも、その時は薬に関することだったので、何とか埋めることができました。そして終わった後、これは9割取れたと思いました。全然感触が違う、と思いました。これは9割取れたと思って、隣の知らない人に、「今日のTOEFLはいやに簡単でしたね」と聞いたら、迷惑そうに、「いや、いつも通り難しいTOEFLでした」言われて、「あ、そうなんだ」と思いました。でも私にとってはすごくその時簡単だと思いました。そして帰ってきた点数はやっぱり600点あって、9割取れていたのです。それを出したら、入学許可がおりました。
こうしてアメリカの神学校に入ったのですが、8月31日まで病院で働いて、9月5日からのオリエンテーションに出たのですが、とにかく疲れと時差もあって英語は全然わからない。英語の会話がわかった奇跡はその時だけで、あとは本当に自分の実力で、Iとかyouとかたまに聞き取れるぐらいで、何を言っているか全然わかりませんでした。
でもその時に、神様は私にすごく優秀なシンガポール人のルームメイトをおいてくださいました。彼女は、物理学の博士号まで持っている人で、シンガポールの代表で東海村とかの会議にも出るような優秀な人でした。普通大学院レベルとなると、アメリカ人でも自分の勉強でせいいっぱいで、涙しながらレポートを書くみたいな大変なところもあり、訳のわからない留学生の世話は誰も見られないのに、私のシンガポール人の同僚はとても優秀な人だったので、私のことを面倒見てくれました。
そして、私は何もわからず授業だけは出てて、前の方で寝てたのですが、彼女がちょっと心配して私の書類を見ると、登録も何もしていなかったことがわかったのです。そして、授業だけは寝てたけど出ていたので、学校に「この人英語全然わかんないけど授業は出ていたから」と言ってくれて、本当は登録期限はとっくに過ぎていたのですが、特別に登録の許可をもらって、なんとか授業を登録することができました。
本当に、あの時、イーチンというシンガポール人のルームメイトを備えてくださったのは神様の大きな恵みでした。ちなみに彼女は学校で一番優秀な人だったのですが、そういう人を私のルームメイトに備えてくださったことが、すごく感謝でした。
そして、最初のうちは、私が何も話せないし聞き取れないので、みんな私が唖だと思っていたのです。でも何か楽しまないといけないからテニスしようと言われても、英語でどうやって話して良いのかわからなくって断る始末でした。また、散歩に行くと言っても英語で話さないといけないから断らないといけませんでした。そんな大変な中でしたが、ずっと英語漬けでやっていたら、半年ぐらい経って、なんとか英語がわかるようになってきました。そして1年経ったら、何とかしどろもどろでも話せるようになって、自分でノートも取れるようになりました。「私の英語力はだいぶついたなあ」と思って、もう1回、その時TOEFLを受けてみたら、全然600点行ってませんでした。その時、カウンセラーが言っていたことは本当で、私が600点取れたのも本当に主の奇跡だったことがわかります。
最初は本当に大変でしたけれども、何とかコロンビアで修士号を取ることができました。そしてお金もないし、日本に帰ろうかどうしようか、と思ってた時に、神様が「今度はトリニティ神学校に行きなさい」と言われました。私は、もしアメリカにいるんだったらコロンビアにいたいと思っていたのですが、「トリニティ神学校にどうしても行きなさい」と言われてトリニティ神学校で勉強することになりました。
トリニティ神学校は当時、福音派の黄金時代と言われていた時代で、世界中から本当に優秀な聖書学者が集まっていました。そういう先生たちから学べたのは本当に大きな恵みだということが後からわかりました。そして後でわかったのは、イーチンとかの助けを得ずに、最初からトリニティに行っていたら私は脱落して、日本に帰ってこないといけなかったことです。けれどもコロンビアという、本当に温かい雰囲気のところで勉強でき、それからトリニティに行き、そんなに長くいるお金もなかったのに、なぜか神様が全部お金を与えてくださいました。結局、4年ちょっとぐらいいて、トリニティでは神学修士を取って帰ることができました。
帰ってきてから良かったと思ったのは、神様が、本当に私の学びに必要な導きを与えてくださったことです。そのことに私は感謝しました。私が1人でつくばで伝道するように導かれた時、他の先生から、どこの馬の骨なんだというふうに「所属教団は」と聞かれて「なしです」と言うと、大体、「じゃあどこの神学校出たの」と聞かれるので、「トリニティ」と言うと、一目おいてくださって、「ああ、それは良い神学校ですね」と言ってくださり、受け入れてもらえるということも本当に感謝でした。
(後編に続きます)