人が果たすべき使命

2021年12月26日

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

コリント人への手紙 第一 6章20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 リクエストがあったため、これまで4週にわたり、人のなすべき課題()について語りました。人の課題の他に、人が果たすべき使命についてもリクエストがありましたので、今回、一年の終わりに宿題をはたすことができ嬉しく思います。

 神様は、大きな代価を払って私たちを買い取ってくださいました。それは、ご自分のひとり子を送るという代価です。イエス様は、天の栄光を捨てて、この暗い地に人となってきてくださいました。そして、ご自分を虚しくし、しもべの形をとって、鞭打たれ、つばきをかけられ、十字架にかかることも耐え忍ばれて、罪の贖いをなされました。

 聖書には、血を注ぎ出すことがなければ罪の赦しはない、とあります。罪の赦しを与えるためには、罪を犯したことのない清い血が流され、呪いを受けなければならない、と神様が定められたので、イエス様がそのことを成し遂げてくださいました。

 十字架刑は、当時あまりにもむごい刑でしたので、ローマ市民には適用されない程でした。十字架刑は、釘が打たれ、その釘で全体重を支えて苦しみ、衰弱して死を迎えるというむごい刑でした。死を迎えるまでに、2、3日かかる場合もありましたが、イエス様はその日のうちに息を引き取られました。そして、その日が安息日でしたので、イエス様が息を引き取られたあと、人びとはイエス様の脇腹を刺してその遺体を葬りました。このようにしてイエス様の血潮は流されました。

 私たちは、このイエス様の贖いの故に、罪赦されました。そしてこのイエス様の贖いが、罪赦されるために神様が定められた唯一の道でした。私たちはこのようにして代価を持って、買い取られ、神の子とされました。そして、自分のからだをもって神様の栄光を現すことこそが、私たちに与えられている唯一の使命です。

 神様の栄光を現すこととは、具体的にどのようなことなのでしょうか。それは、イエス様を模範としていくことです。イエス様は、ご自身の足跡に従うように模範を示された、と聖書に書かれています。これは、つまりご自身が歩まれたように歩んでいくことが、私たちにも求められているということです。それでは、イエス様はどのように歩まれたのでしょうか。

 一つ目には、イエス様はご自身を生けるささげ物として神様にささげられました。

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

ローマ人への手紙 12章1節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 私たちが、自分自身を神様にささげていくとき、それは神様の栄光を現すことに繋がります。イエス様も、ご自分の体をささげて、神様に礼拝をささげられました。ささげるとは、礼拝することです。

 もう少し具体的に、どういうことなのか見ていきましょう。私たちが何かをするとき、そこには必ず、動機が背後にあります。自分の栄光を現すことは、神様の栄光を現すことにはなりません。イエス様も、ご自分の栄光を絶対に求められませんでした。

わたしは自分の栄光を求めません。それを求め、さばきをなさる方がおられます。

ヨハネの福音書 8章50節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 自分の栄光を求めることは、神様に栄光を帰すことにはなりません。よく、「神様の栄光、栄光」と言いながらも、素晴らしいね、と人びとから言われることを動機としている人がいます。聖書にはこのことについて、次のとおり書いています。

テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。
みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。
しかし、テモテが適任であることは、あなたがたが知っています。子が父に仕えるように、テモテは私とともに福音のために奉仕してきました。

ピリピ人への手紙 2章20~22節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 「みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません」と書かれていますが、これは教会に繋がっている人のことを指しています。そしてテモテが適任である、と書かれていますが、このような人は少数です。私たちは、注意しなければなりません。神様のためにと言いながら、自分のことを求めて、自己実現のためにイエス様を利用することになってしまからです。このように、自分の栄光を求めないことはとても大切なことです。

 もし、私たちが、褒められたり、賞賛されたりすると、いい気持ちになって神様に栄光を帰すことができなくなってしまいます。このことについて、ムーディという伝道者のお話をします。彼はシカゴで靴職人として働いていて、無学の人でした。彼はイエス様と出会い、イエス様の力を経験して、英語は間違いだらけでしたが人々に伝道して用いられた人でした。ムーディはある同僚と働いていましたが、ある日、何万人もの人が集会に集まりました。その同僚は、こういました。「こんなに人が来ているなんて、私たちは一角のものだ、素晴らしいものだ」と。そのとき、ムーディは、「これは危険だ、危ない」と思ったそうです。その同僚が自分の栄光を求めていたからです。そしてそれ以来、その同僚が何をしても神様の栄光が現されなくなり、いつの間にかその同僚は退けられていました。

 もし、自分が素晴らしいなどと思い始めると、神様の栄光を取ってしまいます。このため、「いやいや、神様が素晴らしいのですよ」と常に神様に栄光を帰すことが必要です。神様は、ご自分の栄光を取られることを、一番嫌われます。聖書に出てくるヘロデの場合もそうでした。彼は王様で、民衆の前に出た時に、民衆が「神の声だ、神の声だ!」と言ったのでそのことを喜びました。しかしそのとき、すぐに彼の命は取られました。ヘロデと同じように、私たちは自分の栄光を求めて、いい気持ちになりやすいものです。このため、本当にイエス様を求めている人はなかなかいないのが現状です。

 私たちは、常に気をつけていなければなりません。人びとがもし自分を褒め始めたときには、神様が素晴らしいと常に栄光を帰していくことが必要です。

 私たちが、何ができても、それは神様から与えられているものです。健康も、能力も、神様から与えられています。それは、この地上の人生の短い間、一時的に預かっているものに過ぎません。常に栄光を神様に帰すことを心がけていきたいと思います。

 また、神様の栄光を現すために、常に神様の命令を果たしていくことが必要です。自分の思いではなく、神様の御心をなすことを心がけたいと思います。

わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。

ヨハネの福音書 6章38節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様は、この地上での生涯、ご自分の思い通りに生きるのではなく、徹底して神様の御心を求めて従われました。なぜなら、自分の思いと神様の御心は相反するものだからです。イエス様は、自分の心をなすのではなくて、常に神様の御心をなすために降ってこられました。そして、十字架刑に処されることが神様の御心だということをイエス様はご存知でしたから、「できればこの十字架刑を避けさせてほしい」と言うほどの究極な状態に陥られました。これから、十字架刑に処されるというその時のことが、次の御言葉に書かれています。

さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」
そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、
彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」
それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。
そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」

マルコの福音書 14章32~36節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様は、十字架刑のことを思って深く悩み、もだえ始められました。そして、究極な状態に陥られたイエス様は、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」とお弟子さんたちに言われました。そしてイエス様は、「できることなら十字架刑を避けさせてほしい」と祈られました。さらにイエス様は、「アバ、父よ」と祈られました。これは「お父ちゃん」というように、親しみのある呼び方です。また、「あなたは何でもおできになります」と祈られました。これは、「あなたは天の軍勢を送り出し私を救い出すことができますよ」という意味です。そして、「どうか、この杯をわたしから取り去ってください」と祈られました。この杯とは、十字架刑のことです。このことを祈られたのは、イエス様は神様の子どもで、100%神様であると同時に100%人間であられたからでした。100%人間であったイエス様は、肉体を持っておられて、深く悩み悶えられるほど、極限状態におかれていたのです。このような極限状態に置かれていたにもかかわらず、イエス様は「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」と祈られました。そして御心に全て従われて、この数時間後に、十字架で苦しまれ、死なれました。

 イエス様は、極限の状態で神様の御心をなされました。これが、神様の栄光を現すということです。これとは対照的だったのが、モーセの出来事です。モーセは立派な指導者でしたが、一回失敗しました。

そこには、会衆のための水がなかった。彼らは集まってモーセとアロンに逆らった。
民はモーセと争って言った。「ああ、われわれの兄弟たちが主の前で死んだとき、われわれも死んでいたらよかったのに。
なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れ、われわれと、われわれの家畜をここで死なせようとするのか。
なぜ、あなたがたはわれわれをエジプトから連れ上り、このひどい場所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような場所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」
モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入り口にやって来て、ひれ伏した。すると主の栄光が彼らに現れた。
主はモーセに告げられた。

民数記 20章2~7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 モーセが導いた会衆は、「水がない!」と不満を言いました。すると神様が、モーセに次のように命じられました。

「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」
そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、主の前から杖を取った。
モーセとアロンは岩の前に集会を召集し、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、豊かな水が湧き出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信頼せず、イスラエルの子らの見ている前でわたしが聖であることを現さなかった。それゆえ、あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」

民数記 20章8~12節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 モーセは、会衆に対して怒りがありました。そして、「この岩から、われわれがあなたがたのために水を出さなければならないのか」と言いました。神様が水を出され、彼らにはその力がないのに、です。彼らはただ、神様に使わされているしもべでした。しかし、「われわれが水を出さなければならないのか」と言ったところが間違えでした。また二番目の間違いは、神様が「岩に命じれば、岩は水を出す」と言ったのに、「手を上げ、彼の杖で岩を二度打った」ことです。ここで「豊かな水が湧き出た」とあるのは、神様の憐みでした。しかし、モーセは非常に御心を損ねてしまったので、神様から「わたしが聖であることを現さなかった」と言われました。これは、神様に栄光を帰さなかった、という意味です。そして、「あなたがたはこの集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない」と宣告されました。この出来事は、のちにメリバの水の事件と記憶されました。モーセは、この出来事から、いくら願っても約束の地に入ることができませんでした。そして、これが約束の地だ、とその地を目の前にしながら、そこで息を引き取りました。

 このように、自分の思いに従い行動することは神様の御心に反することです。そして重大な違反を招きます。

 モーセは、メリバの水の事件から、いくら願っても約束の地に入ることが許されませんでした。しかしイエス様は、極限の状態でも神様の御心を願ったので、高く上げられました。このようにして全く正反対の結末を迎えたのです。

 自分の思いと神様の御心は両立できません。私たちが、神様の御心を優先していく時に、神様が栄光を取られ、のちに平安を招きます。

 日々、色々な生活の場面で、自分の思いで生きるのか、問われることがあります。理不尽なことがいっぱいあり、自分の思いを優先したいと思う場面や、ギャフンと言わせたいと思う場面もあります。しかし、そこでそれをグッと抑えていく必要があります。この世界は理不尽だと心得ていった方が良いのです。この世は、自分自身を求め、自分さえよければ良い、と思う風潮にあります。正しいことが受け入れられず、すぐに自分に不都合なことが起こると、友達だった人が急に敵になる態度を取ることがあります。それでも自分の思いを収めて、神様の御心が何なのかを求め、それをなすことで神様の栄光を現すことができます。

 このように自分自身が神様の御心なし、栄光を現すと同時に、そのような人、つまりイエス様の弟子をつくっていくことも大切です。イエス様の弟子とは、自分の思いを実現するのではなく、命令を果たして神様の栄光を求めていきたい、と思う人です。イエス様は、弟子を作りなさいという命令、Great Commission(グレイト・コミッション) 、すなわち、偉大なる神様からの使命を私たちに与えられました。

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

マタイの福音書 28章18~20節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 イエス様がここで言われている弟子とは、イエス様にならって歩み、自分自身をささげる人のことです。自分自身をささげるとは、礼拝するということです。自分の栄光ではなく、常に神様の栄光を求め、自分の思いではなく、神様の御心をなすことです。

 この御言葉は、日本語で読むと曖昧ですが、実は原語であるギリシャ語で読むと命令形は一つだけです。それは、「弟子としなさい」という部分です。そして、その弟子をどういう風に作るのかが、現在分詞で形容となっている部分、すなわち、「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け」ることと、イエス様が「命じておいた、すべてのことを守るように教え」ること、という部分です。つまり、バプテスマを授けることによって、イエス様の戒めを守るように教えることによって、イエス様の弟子を作りなさい、とここでは言われているのです。

 また、あなたがたは行って、とあるとおり、私たちは自分から出かけて行って、弟子をつくらなければいけません。この点、日本に送られたイエズス会の宣教師たちは、宣べ伝えることがなければ誰も救われない、と言って大きな犠牲を払って日本に渡ってきました。あの、「少年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士も、働きながら、日本で宣教した人でした。

 このように、自分を捨てなければ、また、自分の思いを持っている限りはイエス様の命令を果たすことができません。イエス様の命令を果たしていくことこそが、永遠の命を受ける道です。イエス様は、もし、永遠の命を失ってしまったら、この世のすべてを手に入れても何の益になるだろうか、と言われました。この世のどのような宝を得ても、永遠の命を失うならば何の得にもなりません。

 私たちに与えられている使命とは、自分自身が神様の栄光を現す人となると同時に、そのような弟子を作ることです。実は、私たちは、そのことをなすために生きているのです。自分の栄光を求めるのではなく、神様の栄光を求め、御心に常に従うことと同時に、弟子をつくることが、私たちに与えられている使命です。

 今日は、一年の締めくくりとして、人に与えられている使命は何なのか、原点に立ち返って見てきました。あと、数日で2022年を迎えます。これまで、守られてきたことに感謝して、来年も、与えられた使命を全うしていくことを求めて、主とともに歩んでいきたいと思います。

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